2006年9月4日 ホームページ『「日の丸・君が代の強制」と闘う人たちと勝手に連帯するレジスタンスの会』からの引越し完了しました。
《真説古代史・近畿王朝草創期編》(105)

「天武紀・持統紀」(21)


前期難波京の謎(10)
難波遷都の時代背景(1)


(以下は、『古代に真実を求めて 第13集』所収の正木論文「34年遡上と難波遷都」に依拠しています。)

 『日本書紀』は盗用記事だらけである。ヤマト王権本来の事績の記録は一体どのくらい残るのだろうか。特に外交・軍事関係記事はほとんど盗用記事なのではないか。特に新羅からの貢物(進調・貢調・物進・献物)記事が11件もあるが、白村江の戦いの戦勝国が敗戦国に対して、このように頻繁に朝貢するなどあり得ないことだろう。そしてまた何よりも、力は弱まったとはいえ、いまだ九州王朝が倭国の中心権力であった時期だ。ヤマト王権が九州王朝の頭越しに直接新羅と外交関係を結んでいたとは思われない。

 「天武紀」の一連の新羅関連記事の中で、特に684(天武13)年~686(朱鳥元)年の外交・軍事関係記事にいろいろと問題がある。まず、それを読んでみよう。

684(天武13)閏4月5日
詔して曰はく、「來年(こむとし)の九月に、必ず閲(けみ)せむ。因りて百寮(つかさつかさ)の進止(ふるまひ)・威儀(よそほひ)を教えよ」とのたまふ。又詔して曰はく、「凡そ政要(まつりごとのぬみ)は軍事(いくさのこと)なり。て當身(みみ)の装束(よそひ)の物、務めて具(つぶさ)に儲(そな)へ足せ。其れ馬有らむ者をば騎士(うまのりびと)とせよ。馬無からむ者をば歩卒(かちびと)とせよ。並に當(まさ)に試練(ととの)へて、聚(あつま)り合(つど)ふに障(さは)ること勿(まな)。若(も)し詔の旨に杵(たが)ひて、馬・兵に不便(もやもやもあらぬこと)有り、亦装束闕(か)くること有らば、親王(みこたち)より以下、諸臣に逮(いたる)るまでに、並に罰(かむが)へしむ。大山位より以下は、罰ふべきは罰へ、杖(う)つべきは杖(う)たむ。其れ務め習ひて能く業(なり)を得む者をば、若し死罪と雖(いふと)も、二等(ふたしな)を減らさむ。唯し己が才(かど)に恃(よ)りて、故(ことさら)に犯さむ者のみは、赦す例(かぎり)に在らず」とのたまふ。(以下略)

 「來年の九月に、必ず閲せむ」に対応するのが次の記事である。

685(天武14)9月11日
宮處王・廣瀬王・難波王・竹田王・彌努王を京(きさと)及び畿内(うちつくに)に遣して、各人夫(おほみたから)の兵(つはもの)を校(かむが)へしめたまふ。

 罰則まで用意した厳格な軍備命令は、この前後の記事に比して、唐突であり異質である。このような厳格な軍備命令を下さなければならない状況は全く見あたらない。さらに周芳・筑紫に大量の軍用物資を送り、他の国々にも臨戦態勢を執らせている。

685(天武14)
11月2日
儲用(まうけ)の鐵一萬斤を、周芳の總令(すぶるをさ)の所(もと)に送(つかは)す。是の日、筑紫大宰、儲用の物、絁一百匹・絲一百斤・布三百端・庸布四百常・鐵一萬斤・箭竹二千連を請(まう)す。筑紫に送(つかは)し下す。
4日
四方(よも)の國に詔して曰はく、「大角・小角、鼓吹・幡旗、及び弩・拠の類は、私の家に存くべからず。咸(ことごとく)に郡家(こほりのみやけ)に収めよ」とのたまふ。

 次いで新羅から貢物を携えた外交官が派遣される。

11月27日
新羅、波珍飡金智祥・大阿飡金健勲を遣して政を請す。仍りて調進る。

 さらに筑紫の防人が海難事故に遭ったという記事が続く。

12月4日
筑紫に遣せる防人等、海中(わたなか)に飄蕩(ただよ)ひて、皆衣裳(きもの)を失へり。則ち防人の衣服の爲に、布四百五十八端(むら)を以て、筑紫に給(おく)り下す。

 軍船が沈没したのであろう。衣服を新調するための「布四百五十八端」というのだからかなり大きな事故だったようだ。

 次いで再度、新羅から遣使が筑紫にやってくる。

686(朱鳥元)年
4月13日
新羅の客等(まらうとら)に饗へたまはむが為に、川原寺の伎楽(くれがく)を筑紫に運べり。仍りて、皇后宮(きさきのみや)の私稲五千束を以て、川原寺に納む。

 筑紫に到着した新羅の遣使をもてなすために、伎楽(百済から伝わった中国の舞楽)の一団をわざわざ飛鳥から派遣してまでの歓待ぶりである。そしてその新羅使の「進調」が他に例がないほどすごい。

19日
新羅の進(たてまつ)る調(みつぎ)、筑紫より貢上(たてまつ)る。細馬一疋・騾一頭・犬二狗・鏤金器、及び金・銀・霞錦・綾羅・虎豹皮、及び薬物の類、并て百餘種。亦智祥・健勲等が別に献る物、金・銀・霞錦・綾羅・金器・屏風・鞍皮・絹布・薬物の類、各六十餘種。別に皇后・皇太子・及び諸の親王等に献る物、各数有り。

 この戦勝国からの貢物とその使者への歓待ぶりは異常である。一体何があったのだろうか。

 以上の一連の記事の謎は「天武紀」の中では永久に解けない。
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