2006年9月4日 ホームページ『「日の丸・君が代の強制」と闘う人たちと勝手に連帯するレジスタンスの会』からの引越し完了しました。
《真説古代史・近畿王朝草創期編》(104)

「天武紀・持統紀」(20)


前期難波京の謎(9)
味経宮と大郡宮(2)


 昨日、改めて「古賀達也の洛中洛外日記」(以下「日記」と略称)の前期難波京関係の記事に目を通してみた。自ら「前期難波京の謎」を書いてきた今、その「日記」の中に私が書いてきた説と相通じるのではないかと思われる事柄を二点見いだした。

 正木さんは「孝徳紀」の大郡宮を「太宰府か」と書き留めていた。私も、今のところ所在地が特定できないとしても、筑紫の大郡宮として論を進めてきた。ところで、次に引用する「日記」の「第218話 太宰府条坊の中心領域」で古賀さんが「通古賀地区の宮殿」を取り上げている。地図で目測すると、太宰府跡より南に1㎞ほどいった辺りのようだ。私はこれこそ筑紫大郡宮ではないかと思った。いかがでしょうか。

 7月の関西例会で伊東さんが紹介された、太宰府条坊と政庁の中心軸はずれているという井上信正氏(太宰府市教育委員会)の調査研究は衝撃的でした。そのずれの事実から、政庁(2期)や観世音寺よりも条坊の方が先に完成していたという指摘も重要でした。すなわち、現都府楼跡の政庁は条坊が完成したとき(七世紀初頭、九州年号の「倭京」年間と思われる。)にはまだ無く、条坊都市に当然存在したはずの中心領域、すなわち九州王朝の王宮は別にあったことになるからです。

 この点に関しても、井上氏は重要な指摘をされています。それは条坊右郭中央にある通古賀地区に注目され、同地域の小字扇屋敷(王城神社がある)付近からは比較的古い遺物が集中して出土しており、この地区が条坊創建時の中心領域と推定されています。

 しかも、この扇屋敷を中心とする領域は、小規模ながら藤原宮を中心とする大和三山・飛鳥川の配置とよく似ており、同じ風水思想による都市設計ではないかとされています。すなわち、扇屋敷の北には小丘陵(小字東蓮寺)があり、東には古代寺院般若寺から伸びる丘陵地が、南には南東から北西に流れる鷺田川があるのです。

 これを九州王朝説から考察すれば、七世紀初頭の条坊都市の中心領域は通古賀地区であり、ここに九州王朝の宮殿が造られたと考えることが可能です。しかも、「王城神社」という名称も注目されます。更には、井上氏も指摘されていますが、この扇屋敷の中心軸の丁度南のライン上に基山山頂があることも、この地域が重要地点であったことを感じさせるのです。

 まだ研究途中ですが、七世初頭の九州王朝は太宰府に条坊都市を造り、その中心として通古賀地区扇屋敷に宮殿を造ったという仮説は有力のように思われます。そして、もしこの仮説が正しければ、太宰府を先行例として藤原宮・藤原京は太宰府条坊都市と同じ設計思想で造られたことになり、この視点から新たな問題が惹起されてくるのです。

 小郡宮があったとされる地域は基山のさらに南へ数㎞いった辺りにある。扇屋敷の宮殿の造営は7世紀初頭ということだから、その造営は小郡宮に先行する。小郡宮は離宮のようなものだったと思われる。小郡宮の造営後、この小郡宮に対して、扇屋敷の宮殿を大郡宮と呼んだのではないだろうか。

(この小郡宮と大郡宮との関係についてはまだ疑問点が残っていて、私自身まだ完全には納得できていない。もう一つ、地図を見ていて「もしかしたら」と思ったことがある。朝倉市はこの小郡市のすぐ東にある。斉明が九州で居住していたという朝倉宮とはこの小郡宮のことではないか。)

 もう一つは「日記」の「第166話 副都の定義」である。そこで古賀さんは「九州王朝の天子は太宰府と難波宮を必要に応じて往来し、両都を使い分けていたのではないでしょうか」と述べている。前回取り上げた「孝徳紀」の記事②・③では、九州王朝の天子が、大郡宮から味経宮に遷り、味経宮から大郡宮へと還っている。せっかく新都を造り遷都を果たしたのに、なぜまたすぐに筑紫へ還ってしまうのか、理解しがたいと思っていたが、古賀さんの論考を読んでこの疑問は解消した。

 副都とは首都に対応する概念であり、前期難波宮の場合、具体的には7世紀における九州王朝の首都「太宰府」に対する副都ということになります。「副」とは言え、「都」ですから、天子とその取り巻きだけが居住できればよいというものではありません。天子以外の国家統治の為の官僚機構や行政機構が在住でき、その生活のための都市機能も必要です。すなわち、天子と文武百官が行政と生活が可能な宮殿と都市があって、初めて副都と言えるのです。

 この点、天子とその取り巻きだけが居住できる行宮や仮宮とは、規模だけではなく本質的に機能が異なります。そして、一旦、首都に何らかの問題が発生し、首都機能の維持が困難となった際、統治機構がそのまま移動し、統治行政が可能となる都市こそ副都と言えるのです。

 おおよそ、以上のように副都の定義をイメージしています。そして、7世紀において、太宰府に代わりうる「首都機能」を有す様式と規模をもっていたのが、前期難波宮なのです。それでは、太宰府が首都として機能している期間は、前期難波宮は無人の副都だったのでしょうか。わたしは、そのようには考えていません。『日本書紀』孝徳紀に盗用された、大がかりな白雉改元儀式は前期難波宮で行われたと思われますので、もしかすると九州王朝の天子は太宰府と難波宮を必要に応じて往来し、両都を使い分けていたのではないでしょうか。今後の研究課題です。

 では、九州王朝はどうしてそのような都城規模の副都を必要としたのだろうか。古賀さんが「一旦、首都に何らかの問題が発生し、首都機能の維持が困難となった際」と述べているような差し迫った事情があったはずである。この問題を次のテーマとしよう。
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