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2006年9月4日 ホームページ『「日の丸・君が代の強制」と闘う人たちと勝手に連帯するレジスタンスの会』からの引越し完了しました。
《真説古代史・近畿王朝草創期編》(103)

「天武紀・持統紀」(19)


前期難波京の謎(8)
味経宮と大郡宮(1)


 難波宮完成前後に出てくる宮名が二つある。味経宮と大郡宮。

味経宮について

 味経という言葉は、「味経の原」(928番)「味経の宮」(1062番)と『万葉集』にも出てくる。これらの歌は後期難波宮を題材にしたものだが、難波宮が造られたあたりの地名は味経であったようだ。前期難波宮は味経宮と呼ばれていた。

大郡宮について

 「孝徳紀」以前に出てくる大郡を列挙すると次のようである。

561(欽明22)年是歳条
・・・於難波の大郡(おほこほり)に、諸蕃(もろもろのまらうと)を次序(つい)づるときに・・・

608(推古16)9月5日
 客等を難波の大郡に饗たまふ。

630(舒明2)是歳
改めて難波の大郡及び三韓の館を脩理(つく)る。

 これらの例では「難波大郡」と所在地が特定されている。また、これらは「宮」ではなく、外交用施設であることも明らかである。そしてこの後、この庁舎が「宮」として改造されたという記事はない。

(ただし『続日本紀』には、天平勝宝1年(749)~2年の記事の中に、孝謙天皇が大郡宮に「遷った」あるいは「還った」という記事が4回だけでてくる。天皇用の「宮」なら造営記事が記録されるはずだが、外交施設大郡の跡地に「宮」を造営したという記事は『続日本紀』にもない。従って『続日本紀』の大郡宮は孝謙天皇が皇太子(史上初の女性皇太子)として使用していた「宮」だったのかもしれない。ともあれ、上の諸記事よりも1世紀以上も後のことなので、考慮の対象にしなくてよいだろう。)

 次に「孝徳紀」に現れる味経宮と大郡宮の記事を並べてみよう。


650(常色4 白雉元)年
 白雉元年春正月の辛丑の朔に、車駕(すめらみこと)、味經宮に幸して賀正禮(みかどおがみのこと)を観(みそなは)す。是の日に、車駕、宮に還(かへ)りたまふ。


651(常色5 白雉2)年
 冬十二月の晦(つごもり)に、味經宮(あぢふのみや)に、二千一百餘の僧尼を請(ま)せて、一切經讀ましむ。是の夕に、二千七百餘の燈を朝の庭内に燃(とも)して、安宅・土側等の經を讀ましむ。是に、天皇、大郡より、遷りて新宮に居す。號(なづ)けて難波長柄豐碕宮と曰ふ。


652(白雉元 白雉3)年
 春正月の己未の朔に、元日の禮おわりて、車駕、大郡宮に幸す。

 ②の大郡は「宮」となっていないが、「大郡より新宮に遷居した」というのだから、当然遷居する前の大郡は「宮」でなければならない。つまり、③の大郡宮と同一の「宮」である。また、ここに出てくる大郡は「難波」という地名特定の修飾語がない。ではこの大郡宮は何処にあったのだろうか。

 大郡はもう一回、「天武紀」に現れる。

673(天武2)年11月21日
高麗の邯子・新羅の薩儒等に筑紫の大郡に饗たまふ。祿(もの)賜ふこと各差有り。

 ここでは「筑紫」大郡と所在地が明らかだ。そして、大郡は難波大郡と筑紫大郡しかなく、難波大郡は「宮」でなかった。とすると、筑紫大郡が「宮」だったということになる。しかし小郡宮と違い、考古学的裏付けがなにもないので、確言はできない。ちなみに、正木さんは「太宰府か」と推測している。

 『日本書紀』の大郡宮は筑紫にあったという前提で①~③を検討してみよう。その読解が正しいとすれば、一つの状況証拠と言えるだろう。

 まず①がおかしい。どこから「幸して」どこへ「還った」のかわからない。『日本書紀』の記述に従えば孝徳は難波碕宮、つまり難波長柄豊碕宮にいたことになる。前回掲載した次の記事だ。

648(常色2 大化4)年)正月1日
 賀正(みかどをがみ)す。是の夕に、天皇、難波碕宮に幸(おはしま)す。

 改めて読んでみると、この記事もおかしい。「是の夕に・・・」以下は「賀正」が終わってから難波長柄豊碕宮に行幸したとしか読めない。すると「賀正」を行った場所は、「647(常色元 大化3)年12月にいた武庫行宮ということになる。本宮ではなく行宮で正月の宮殿行事を執り行うなんて、なんだか気の毒だなあ。

 ①にもどろう。さらに、①には決定的におかしいことがある。味経京の工事はその年の10月にやっと「宮の堺標を立」てる所まで進む。正月の味経宮もまだ建設工事中だと思われる。そこまで出向いていって、そこで「賀正禮」という晴々しい新年の行事をやるとは、不可解だ。この記事全体を疑うべきだろう。

 ここで『「天武紀」の伊勢王(2)』で取り上げた古賀さんの「見事な読解」を思い出した。それは、①に続いて記載されているあの長い白雉改元記事(「伊勢王とは誰か」(1)で、現代語訳で全文掲載しています)は、本来は③の後にあったものが①の後に切り貼りされたものだったという論証だった。ここで私は、①は③の一部を切り取り改竄して、白雉改元記事とペアにして650(常色4 白雉元)年の記事として貼り付けたのではないかと思い至った。つまり③は本来、例えば、次のようであった。

652(白雉元 白雉3)年
 春正月の己未の朔に、車駕(すめらみこと)、味經宮にて賀正禮(みかどおがみのこと)を観(みそなは)す。元日の禮おわりて、車駕、大郡宮に還(かへ)りたまふ。

 つまり、天子(九州王朝)は651(常色5 白雉2)年12月に「大郡より、遷りて新宮に居」している。その新宮(味経宮)で賀正禮を執り行なった。その後、筑紫の大郡宮に還った。九州王朝の年号で「白雉元年」のことである。白雉出現の吉祥にちなんで年号を「白雉」としたが、新宮完成を祝っての改元であった。

 私としてはこれで不可解だった点がすっきりすると考えているが、独断に過ぎるだろうか。
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