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《真説古代史・近畿王朝草創期編》(102)

「天武紀・持統紀」(18)


前期難波京の謎(7)
「難波宮=難波長柄豊碕宮」か?(2)


(今年の4月に発刊された『古代に真実を求めて 第13集』に正木裕論文「34年遡上と難波遷都」があった。図書館から借りてきました。これを参考書に加えます。)

 前回の岩波の頭注「「白雉2年12月、造営ほぼ終わって遷都するまで難波の諸宮を宮とする」の「諸宮」を念のため調べてみた。まず「子代離宮(このしろのかりみや)」というのが出てくる。

646(命長7 大化2)年正月
 是の月、天皇、子代離宮に御(おはしま)す。使者を遣して、郡国(こほりのくに)に詔して兵庫(つわものぐら)を修営(つく)らしむ。蝦夷親附(まいしたが)ふ。〈或本に云はく、難波狭屋部邑(さやべのむら)の子代の屯倉(みやけ)を壊(こぼ)ちて、行宮を起つといふ。〉

646(命長7 大化2)年2月22日
   天皇、子代離宮より還りたまふ。

 ほぼ2ヶ月間滞在して還るが、何処に還ったかは書いていない。書かなくとも分かる当たり前の所に還ったから書かないのだろう。つまり本拠地(常駐している宮殿)に帰った。ではそれは何処だろうか。この条の前に出てくる宮殿は難波長柄豊碕宮しかない。そこに還ったとしか考えられないではないか。

(行宮から本宮に還るときの記事の書き方が気になったので調べてみた。「還自~宮」(~宮より還る)という言い回しは、『続日本紀』の含めて、「孝徳紀」以外にはない。ほかでは全て「還宮」(本宮へ還る)である。つまり出発地ではなく目的地を書いている。)

 次は同じ年の3月19日条に「新しき宮」が出てくる。長い記事なので必要な部分だけを掲載する。

646(命長7 大化2)年3月19日
・・・念ふこと是(かく)の若しと雖も、始めて新しき宮に處(を)りて、將に諸の神に幣(みてぐら)たてまつらむとおもふこと。今歳(ことし)に屬(あた)れり。又、農(なりはひ)の月にして、民(おほみたから)を使ふ合(べ)からざれども、新しき宮を造るに縁(よ)りて、固(まこと)に已(や)むこと獲(え)ず。深く二つの途を感(かま)けて、天下(あめのした)に大赦(おほきにつみゆる)す。・・・

 ここの「新しき宮」を岩波頭注は難波宮としている。えっ! 難波宮が完成するのはまだ5年も後のことだよ。念のため宇治谷孟訳「現代語訳日本書紀」を見てみたら、「今新しい難波宮において」と訳している。どうやらこれは従来の全学者が認める「定説」のようだ。このような矛盾した「定説」がまかり通るとは、ほとほとあきれるばかりだ。

 「難波宮≠難波長柄豊碕宮」とする私(たち)には何の矛盾もない。「新しき宮」とは、前年遷宮した難波長柄豊碕宮のことである。(ただし、この私の説は留保つきである。「大化改新」全体が本来の大化期からの盗用だとすると、「新しき宮」は藤原宮ということになる。正木さんはそのように扱っている。「孝徳紀」は実に厄介なのだ。)

646(命長7 大化2)年9月
是の月に、天皇、蝦蟇行宮(かはづのかりみや)に御(おはしま)す。〈或本に云はく、離宮といふ。〉

 位置不詳の行宮。「還る」記事がない。まさかずっとここで政治を執っていたわけではないだろうが、「孝徳紀」全体を信用すると、そういうことになる。

647(常色元 大化3)年
 是歳、小郡(をごほり)を壊(こほ)ちて宮營(つく)る。天皇、小郡宮に處(おは)して、禮法(ゐやののり)を定めたまふ。其の制に曰はく、「凡そ位有(たも)ちあらむ者は、要(かなら)ず寅の時に、南門の外に、左右羅列(つらな)りて、日の初めて出づるときを候(うかが)ひて、庭(おほば)に就きて再拝(をが)みて、乃ち廳(まつりごとどの)に侍れ。若し晩(おそ)く參(まうこ)む者は、入(まゐ)りて侍ること得(え)ざれ。午の時に到るに臨みて、鍾(かね)を聴きて罷(まか)れ。其の鍾擊(つ)かむ吏(つかさ)は、赤の巾(ちぎり)を前に垂れよ。其の鍾の臺(かけもの)は、中庭(おほば)に起てよ」といふ。

 官僚の出廷・退廷の礼法を定めている。ここにでてくる小郡宮について岩波の頭注は次のように述べている。

「(小郡は)地名ではなくて朝廷の迎賓などの施設の名であろう。摂津志に「西成郡、上古難波小郡。日羅墓在大阪天満同心町」とある。今の大阪市の中心部で上町台地の西側。同じく東生郡に大郡があり、筑紫にも大郡・小郡があった。」

 迎賓館程度の施設で、詔まで発してこのような仰々しい礼法が決められたのだろうか。この小郡宮については正木さんの論評を紹介しよう。なお、筑紫の大郡・小郡は「天武紀」・「持統紀」に出てくる。それぞれ「筑紫の大郡」・「筑紫の小郡」と書いてあり、まぎれようがない。ちなみに、岩波大系では全ての大郡・小郡を迎賓館扱いしている。

 『岩波注』は、小郡宮は「難波小郡」とし、「朝廷の迎賓などの施設の名であろう」とする。しかし、有位の官僚に「南門外に羅列、庭で再拝し参内、鐘に合せて入退庁せよ」と記すのは、小郡宮が迎賓施設などではなく、正規の殿舎・庁舎である事を示すものだ。

 「難波小郡」は難波宮跡のある大阪上町台地の西半とされるが、前期難波宮の造宮直前に、そうした規模の宮を近接した場所に造ったとは考え難いし、また遺跡も発見されていない。

 一方、「書紀』には「筑紫小郡」の存在が記され、考古学的にも、筑紫小郡(福岡県小郡市)には、多数の国衙・官衙等の遺跡が出土する。

 特に、旧御原郡の井上地区に井上廃寺・井上薬師堂遺跡等の大規模遺跡がある。とりわけ同地区の上岩田遺跡では、大規模基壇を伴う瓦茸き建物、同一方向の大型建物群とそれを囲む柵列が確認され、単なる官衙(証衙)とは考え難い。時代は7世紀の中、後半時代で、小郡宮造宮を大化3年(647)とする『書紀』の記述と致する。

 これは、『書紀』の新宮記事は九州王朝の事績の盗用てあり、難波遷都以前の宮、即ち権力中枢の所在地が筑紫だった事を示すものだ。

 「定説」は「諸宮」の中で初めての宮殿らしい宮(小郡宮)は難波に造られたとするが、それはなんの根拠のない希望的推測にすぎなかった。残念ながら小郡宮は筑紫の小郡にあった。

647(常色元 大化3)年
 冬十月の甲寅の朔甲子に、天皇、有間温湯(ありまのゆ)に幸(おはしま)す。左右大臣・群卿大夫、従(おほみとも)なり。

 十二月の晦に、天皇、温湯より還りまして、武庫(むこ)行宮に停(とど)まりたまふ。〈武庫は、地名也。〉


 温泉旅行の帰りに立ち寄った行宮であり、ここも政務をとるような場所ではない。この後、何処に還ったのか記録はないが、孝徳は「難波碕宮」に現れる。

648(常色2 大化4)年)正月1日
 賀正(みかどをがみ)す。是の夕に、天皇、難波碕宮に幸(おはしま)す。

 この難波碕宮についての岩波の頭注は
「集解に崎の上に豊を補う。→279頁注26」
と書いている。集解とは江戸時代の学者・河村秀根の注釈書「書紀集解」のことである。参照を指定している「279頁注26」とは、前回掲載した頭注「白雉2年12月、造営ほぼ終わって遷都するまで難波の諸宮を宮とする」のことである。つまり「定説」は集解の説を正しいと認めて、「難波碕宮」とは難波長柄豊碕宮のことだと言っていることになる。なーんだ、結局、難波長柄豊碕宮にたどり着いてしまったではないか。だけどまだ難波宮は完成していないよ。「先ず難波に都造らむと欲ふ」はこの翌年のことでした。

 以上、「難波宮=難波長柄豊碕宮」を疑わない「定説」自身が、はからずも「難波宮≠難波長柄豊碕宮」という結論を随所に振りまいているのだった。そして不思議なことに、従来の学者たちは誰一人としてそのことに疑問を持つことなく、不問に付して今に至っている。学者って、何だろう?
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ポルトガル外国人記載の古代年号
ロドリゲス「日本大文典」
最近珍しい書籍を教えてもらいましたので、紹介したいと思います。
安土桃山末期、江戸初めの1608年に、ロドリゲスというポルトガル人が日本での布教のため、日本語から日本文化まで幅広く収集し表した、「日本大文典」という印刷書籍です。
広辞苑ほどもあるような大部です、家康の顧問もしていました。
興味深いことにこの本の終わりに、当時ヨーロッパ外国人により聞き取られた、日本の歴史が記載され、倭国年号から大和年号に継続と思われるものが記載されていることです。この頃の古代からの日本の歴史についての考を知ることができるのでしょうか。もう既に見ていますか。
2013/12/14(土) 11:07 | URL | いしやま #-[ 編集]
Re: ポルトガル外国人記載の古代年号
いしやま様、コメントありがとうございます。
ロドリゲス「日本大文典」という本、初めて知りました。
<倭国年号から大和年号に継続と思われるものが記載されている>
とのこと、興味深いですね。
「日本大文典」は絶版のようです。近くの図書館にあれば調べてみようと思いましたが、残念ながらありませんでした。
2013/12/14(土) 11:33 | URL | たっちゃん #-[ 編集]
日本史書紀と日本紀720年は別
倉西裕子著 『「記紀」はいかにして成立したか』 720年日本紀 と 日本書紀 は 別物という考証があります。
2013/12/18(水) 14:26 | URL | いしやま #j1BwbPXw[ 編集]
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