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2006年9月4日 ホームページ『「日の丸・君が代の強制」と闘う人たちと勝手に連帯するレジスタンスの会』からの引越し完了しました。
《真説古代史・近畿王朝草創期編》(101)

「天武紀・持統紀」(17)


前期難波京の謎(6)
「難波宮=難波長柄豊碕宮」か?(1)


 「孝徳紀」のほとんどの記事は九州王朝の史書からの盗用のようだ。そうだとすれば、それらの記事が語っている事の背景を知るために、本来の九州王朝の年号が役立つと思われる。本来の九州年号が必要になるかどうかは分からないが、これより年数表現を「西暦(九州年号 『日本書紀』の年号))月日」と、九州年号を主体に書くことにする。

さて、前回掲載した651(常色5 白雉2)年12月条について、次のように書いた。

 この条を先入観なしに読めば、難波宮は味経宮と呼ばれていた。「難波京は九州王朝の副都」という古賀説が正しいとすれば、九州王朝では難波宮を味経宮と呼んでいたことになる。『日本書紀』編纂者はここで「味経宮=難波長柄豊碕宮」と見せかけるための造作を盛り込んだ。

 このことを詳しく吟味して見よう。まず、難波長柄豊碕宮は前期難波宮とは別ものであるという古賀説を紹介する。(『洛外洛中日記 第268話(2010/06/19)「難波宮と難波長柄豊崎宮」』)


 第163話「前期難波宮の名称」で言及しましたように、『日本書紀』に記された孝徳天皇の難波長柄豊碕宮は前期難波宮ではなく、前期難波宮は九州王朝の副都とする私の仮説から見ると、それでは孝徳天皇の難波長柄豊碕宮はどこにあったのかという問題が残っていました。ところが、この問題を解明できそうな現地伝承を最近見いだしました。

 それは前期難波宮(大阪市中央区)の北方の淀川沿いにある豊崎神社(大阪市北区豊崎)の創建伝承です。『稿本長柄郷土誌』(戸田繁次著、1994)によれば、この豊崎神社は孝徳天皇を祭神として、正暦年間(990-994)に難波長柄豊碕宮旧跡地が湮滅してしまうことを恐れた藤原重治という人物が同地に小祠を建立したことが始まりと伝えています。

 正暦年間といえば聖武天皇が造営した後期難波宮が廃止された延暦12年(793年、『類従三代格』3月9日官符)から二百年しか経っていませんから、当時既に聖武天皇の難波宮跡地(後期難波宮・上町台地)が忘れ去られていたとは考えにくく、むしろ孝徳天皇の難波長柄豊碕宮と聖武天皇の難波宮は別と考えられていたのではないでしょうか。その上で、北区の豊崎が難波長柄豊碕宮旧跡地と認識されていたからこそ、その地に豊崎神社を建立し、孝徳天皇を主祭神として祀ったものと考えざるを得ないのです。

 その証拠に、『続日本紀』では「難波宮」と一貫して表記されており、難波長柄豊碕宮とはされていません。すなわち、孝徳天皇の難波長柄豊碕宮の跡地に聖武天皇は難波宮を作ったとは述べていないのです。前期難波宮の跡に後期難波宮が造営されていたという考古学の発掘調査結果を知っている現在のわたしたちは、『続日本紀』の表記事実のもつ意味に気づかずにきたようです。

 その点、10世紀末の難波の人々の方が、難波長柄豊碕宮は長柄の豊崎にあったという事実を地名との一致からも素直に信じていたのです。ちなみに、豊崎神社のある「豊崎」の東側に「長柄」地名が現存していますから、この付近に孝徳天皇の難波長柄豊碕宮があったと、とりあえず推定しておいても良いのではないでしょうか。今後の考古学的調査が待たれます。

また、九州王朝の副都前期難波宮が上町台地北端の高台に位置し、近畿天皇家の孝徳の宮殿が淀川沿いの低湿地にあったとすれば、両者の政治的立場を良く表していることにもなり、この点も興味深く感じられます。

 古賀さんは、考古学的裏付けがないということで断定をしていないが、私はこの仮説は相当信憑性があると思っている。以下、この仮説を『日本書紀』の記述から検討してみよう。なお、参考に古代の難波地区の地図を掲載しておく。難波宮―長柄間の距離は4~5㎞ぐらいだろうか。かなり近い。

古代の難波地図 (教科書②からの転載)

 さて、味経宮の初出は650(常色4 白雉元)年正月条である。これと前回掲載した651(常色5 白雉2)年12月条と、二回だけ記録されている。また、難波長柄豊碕宮の初出は645(命長6 大化元)年12月条で、こちらも651(常色5 白雉2)年12月条と、二回だけの記録である。三つの記事を順に追ってみよう。

645(命長6 大化元)年12月9日
冬十二月乙未の朔癸卯、天皇、都を難波長柄豐碕に遷す。老人(おきな)等、相謂(あいかた)りて曰はく、「春より夏に至るまでに、鼠の難波に向(ゆ)きしは、都を遷す兆(しるし)なりけり」といふ。

 どう読んだって「遷都した」という記事だ。しかしながら「定説」はこの遷都記事を「実際に遷都したのではなく、遷都予告をした」記事だと解釈している。そして実際に遷都したのは651(常色5白雉2)年12月だと言うわけだ。もしこの解釈が正しいとすると、遷都予告から遷都まで、まる6年かかっている。藤原京や平城京の造営期間と比べて長すぎる。不自然だ。

 また、「先ず難波に都造らむと欲ふ」と言う「天武紀」683(天武12)年12月条を34年遡上させた復元が正しいとすれば、一度遷都予告をしてから4年も経ってから、「先ず難波に都造らむと欲ふ」と再度遷都予告をしたことになる。その4年間なにもせずにただ手をこまねいていたのだろうか。文字通り、なんとも間の抜けた話だ。

 「孝徳紀」ではよく予兆鼠が走る。全部で3回走っている。2回目は大化3年是歳条。越国で「渟足(ぬたり)の柵(き)」を造ったとき、『老人等、相謂(あいかた)りて曰はく、「数年(あまたのとし)鼠東向きて行くは、此、柵造る兆か」といふ』。

 3回目は孝徳の死後皇太子(中大兄)と皇極(斉明)が「倭河辺行宮に遷宮」したときで
老者(おいひと)語りて曰はく、「鼠の倭の都に向ひしは、都を遷す兆なり」といふ。

 3記事ともまったくステレオタイプな記事である。ちゃかすわけではないが、後の2回は、さずが「定説」も、鼠は「造柵予告」や「遷都予告」の予兆で走ったのだ、とは主張していない。どういうわけか、645年の鼠だけは「遷都予告」を予兆して走ったと言う。一貫性がない。

 また、「定説」が正しいとして、それでは遷都予告からめでたく遷都するまでの6年間、孝徳は何処にいたのだろうか。岩波の頭注は言う。
「白雉2年12月、造営ほぼ終わって遷都するまで難波の諸宮を宮とする」。

 難波宮以前に新たに宮殿造営記事はないなら、その「諸宮」は行宮程度のものだろう。その仮住まいを転々と替えてながら政治をしていたというのだ。私にはこんな説明には全く同意できない。

 なぜ「定説」は上のような無理な解釈をするのだろうか。理由ははっきりしている。651(常色5白雉2)年12月条の味経新宮への遷都記事で、『日本書紀』編纂者がその新宮を「號けて難波長柄豊碕宮と曰ふ」と書き添えたときの意図どおりに、「難波宮=難波長柄豊碕宮」を信じさせられたからだ。そのため、645(命長6 大化元)年12月9日の記事を「遷都予告」記事と解釈せざるを得なくなってしまった。

 だいたい、難波宮とは別の所に長柄・豊崎という地名が残っているというのに、「難波宮=難波長柄豊碕宮」を疑わない学者たちを私は理解できない。645(命長6 大化元)年12月9日の記事は、孝徳が難波長柄豊碕宮に遷宮したというヤマト王権本来の事績を述べているものと、文字通りに受け取るべきだ。
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この記事へのコメント
はじめまして豊崎在住の者です

現在の豊崎神社のHPを見ると「昭和19年、遷都1300年祭が齋行され、それと同時に社格を官幣大社豊崎神宮に昇格する為の申請を当時の宮内省、内務省に願書提出の内諾を受けました」とあります。その後空襲で本殿を焼失し、また終戦により社格制度がなくなったため昇格は無期延期となったようですが、戦時中までは豊碕宮が豊崎にあったと解釈されていたということではないでしょうか?

ちなみに昇格話は近所に住む老人から「昔の豊崎神社は靖国より社格が上やった」と聞いたことがあるので事実だと思われます。
2015/04/24(金) 12:42 | URL | 豊崎在住の者 #-[ 編集]
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