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2006年9月4日 ホームページ『「日の丸・君が代の強制」と闘う人たちと勝手に連帯するレジスタンスの会』からの引越し完了しました。
528 「良心の自由」とは何か(22)
現在の日本の精神状況(1)
2006年6月18日(日)

 近代日本のこれまでの精神状況を、「信仰の自由」を基軸にしてたどってき た。古田さんの論考は現在の日本の精神状況にたいする分析に入っていく。

 欧米での「信仰の自由」あるいは「良心の自由」とは、異端を排除し純化さ れたキリスト教の単一神の枠内でのものだった。
 それではそのような装置を持たない社会は、真の「信仰の自由」すなわち 「宗派の自由」ではなく「宗教の自由」、さらに無宗教をも含めてもっと普 遍化した「良心の自由」を確立できる可能性を持っているのではないか。それ は一度はソビエット連邦でその姿を垣間見せたが挫折している。
 古田さんはそれを可能とする社会の条件を三つあげている。

(1)
 非ヨーロッパ(アメリカ)地域であること(キリスト教単性体外であるため の条件)。
(2)
 多宗教の混在地域であること(宗派の自由でなく、宗教の自由があらわれるた めの必要条件)。
(3)
 近代国家の成熟(「信教の自由」の法が完全に設定されるための条件)。

 日本には単一キリスト教社会が形成したような都合のよい(支配者にとって) 装置はなかった。支配階層は天皇教をその代替装置としようとしたがそれは成ら なかった。
 上の3条件を満たす社会の典型はまさに現在の日本ではないか。この観点から古田 さんは日本の精神状況を分析していく。

 そこで今、ヨーロッパ(アメリカ)的舞台装置をはなれた「信教の自由」の 完璧な姿がどのような論理(ロジック)を以て、 その地域(日本)の精神状況を支配するか、その筋道を抽象したいと思います。
 その根本構造は次の通りです。

(中略)

 マルクスが北アメリカ諸州では政治的国家の無宗教性と社会成員のいきいきし た宗教心が共存している(近代資本主義社会の欠陥の反映としての宗教)と説い た時、その「無宗教性」とは実はキリスト教の単一の神を背景にした 「似而(えせ)非無宗教性」(=無宗派性)であった のは前に論証した通りです。

 ところが、ここ(日本)では、政治的国家の純粋な「無宗教化」と色あせた 宗教心とが共存することになります(近代資本主義社会の欠陥はそのままなの に)。そしてこれが「信教の自由」の真相、その論理的帰結なのです。「信教 の自由」は遂にその行く手に「信教からの自由」に至りつく運命をもたざるを 得ないのです。
 この光景を詳述すれば次のようです。

 「信教の自由」の本来の姿、「各宗教混在の自由」が第一に国家理性の原理 的無宗教性としてあらわれます。そして第二に社会自体の無宗教性を徐々に 確実に深めてゆきます。そのゆきつく先は「各宗教の各絶対者達の一般的相対 化(=絶対性喪失)」という地点です。
 しかし、相対化された絶対者とは「塩分なき塩」のことに他なりません。つ まりそれは「一般的な、信仰への〝不信″〝侮蔑″」となってあらわれます。
 さらに事態をはっきりと提示すれば、〝各宗教の枯死″=「各宗教が外から 見ると生きて立って(しばしばさかえて)いるように見え、その内 実は立ったまま(ヽヽヽヽヽ)枯れ、死に絶えてゆく こと」という終末へ時の流れと共に一歩一歩確実に近づいてゆきます。


 創価学会、統一教会、幸福の科学など各宗派はいま確かに栄えているらしい。 これら「新新宗教」(吉本隆明さんの用語。新興宗教と区別している。いずれ取り 上げる予定。)の熱心な信者には、どちらかと言うと支配層のものが多い。 最近インターネットで統一教会を礼賛する政治家・知識人などのコメント集に ぶつかった。大変な数である。中に物理学者や数学者がいるのには驚いた。科学 者が必ずしも科学的ではないことはとうに承知しているが、それにしてもその 迷妄ぶりにはあきれ返った。これももしかするとどこかで取り上げることになる かもしれない。
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