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《真説古代史・近畿王朝草創期編》(100)

「天武紀・持統紀」(16)


前期難波京の謎(5)
 前期難波宮の造営時期(4)


 難波京は羅城に取り囲まれた坊条都市である。その宮殿も荘厳に満ちたものであったと思われる。教科書③は難波宮の構造面での卓越さを次のように簡潔にまとめている。

 これまでに述べた前期難波宮の構造は、基本的には『紀』から復元される推古朝の小墾田宮(おはりだのみや)の構造を継承するものではあるが、内裏が前殿地区と後殿地区に分化すること、巨大な内裏南門の東西に八角殿院を配すること、「朝登院」の規模がきわめて大きく、広大な朝庭と多数の庁(朝堂)をもつこと、近辺の倉庫群とあわせて内延と外延の機能が一つの区画内に集約されていることなど、前期難波宮は従来の飛鳥諸宮に比し隔絶した規模と一段と整備された構造をもつ画期的な宮室であったことがうかがえる。

 さて、「定説」はこの豪壮な難波京を、683(天武12)年12月17日条を根拠に、天武大王の副都だったとしている。

672(天武元)年9月
 癸卯(みづのとのうのひ 15日)、嶋宮より岡本宮に移りたまふ。
 是の歳、宮室を岡本宮の南に榮(つく)る。即冬(そのふゆ)に、遷りて居(おは)します。是を飛鳥浄御原宮と謂ふ。


 近江勢の大臣たちを処刑して壬申の乱が終わったのは「是の歳」の8月25日。その後すぐに着工したとして、飛鳥浄御原宮は4ヶ月たらずで完成している。全部が完成してなかったとしても、遷宮出来る程度にはできあがっていた。この、「京」ではなく、単なる「宮」にすぎない飛鳥浄御原宮が首都で、難波京が副都だと主張しているのだ。この事実に、従来の学者たちは誰一人として疑問をもたなかったのだろうか。

 683(天武12)年12月17日条を疑うべきなのだ。そう、この記事も34年遡上させてもみよう。「683-34=649」。「孝徳紀」の大化5年である(『日本書紀』の盗用手法にならって、日付は直近の同じ干支の日を選んだ)。翌年(白雉元年)以降の京師造営関係記事をつなげて元記事を復元してみよう。ピッタリとおさまるに違いない。

649(大化5)年11月28日←683(天武12)年12月17日
 庚午(かのえうまのひ)に・・・又(また)詔して曰く、「凡そ都城(みやこ)・宮室(おおみや)、一處(ひとところ)に非ず、必ず両(ふたところ)参(みところ)造らむ。故、先ず難波に都(みやこ)造らむと欲(おも)ふ。」とのたまふ。

 この条の最後には『「是を以て、百寮の者、各往りて家地を請はれ。」とのたまふ』という文言があった。「造らむと欲ふ」と言ってすぐ、現地へ行って家地を受領してこい」とは変な話だ。これは次の記事からの切り貼りではないだろうか。そのように考えて、復元した。

650(白雉元)年
 冬十月に、宮の地に入れむが為に、丘墓(はか)を壊(やぶ)られたる人及び、遷されたる人には、物賜ふこと各差(しな)有り。即ち将作大匠(たくみのつかさ)荒田井直比羅夫を遣はして、宮の堺標(さかひのしめ)を立つ。又(また)詔して曰く、「是を以て、百寮の者、各(おのおの)往(まか)りて家地(いへどころ)を請(たま)はれ。」とのたまふ。

 整地が終わって都城の区画を決定したのであろう。官僚たちの敷地も配分された。その1年ほど後に、遷宮できるぐらいには宮殿が完成したようだ。

651(白雉2)年
 冬十二月の晦(つごもり)に、味經宮(あぢふのみや)に、二千一百餘の僧尼を請(ま)せて、一切經讀ましむ。是の夕に、二千七百餘の燈を朝の庭内に燃(とも)して、安宅・土側等の經を讀ましむ。是に、天皇、大郡より、遷りて新宮に居す。號(なづ)けて難波長柄豐碕宮と曰ふ。

 この条を先入観なしに読めば、難波宮は味経宮と呼ばれていた。「難波京は九州王朝の副都」という古賀説が正しいとすれば、九州王朝では難波宮を味経宮と呼んでいたことになる。『日本書紀』編纂者はここで「味経宮=難波長柄豊碕宮」と見せかけるための造作を盛り込んだ。これについては後ほど詳しく吟味しよう。

652(白雉3)年9月
 秋九月、宮造ること巳(すで)に訖(をは)りぬ。其の宮殿の状(かたち)、殫(ことごとく)に論(い)ふべからず。

 約1年前の前条とこの条と、宮殿完成記事が重複しているが、この条の「宮造ること巳に訖りぬ」の意味は、坊条も含めて都城全体が完成したという意味ではないだろうか。完成まで3年ほど掛かったことになる。坊条都市の建設にはこのぐらいの日数が必要だったようだ。近畿王朝の初めての都城・藤原京の場合、宮地選定から遷宮まで約4年、平城京の場合は約3年掛かっている。

 次の図は「殫に論ふべからず」という難波宮の復元予想図である。(クリックすると大きくなります。)

難波宮復元図
(教科書②より転載)

 下の表は宮殿の諸門だけの比較だが、後世の近畿王朝の諸宮殿よりも大きく、抜きん出ていることがわかる。 (クリックすると大きくなります。)

宮殿規模
(教科書③より転載)

 難波宮は「朝登院の規模がきわめて大きく、広大な朝庭」をもつ、まさに「二千一百余の僧尼」が集ったり、「二千七百余の燈」を灯すことができるほどの豪壮な宮殿であった。
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