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《真説古代史・近畿王朝草創期編》(99)

「天武紀・持統紀」(15)


前期難波京の謎(4)
 前期難波宮の造営時期(3)


 「定説」が言う第2期難波宮を検討する上で決定的に重要な事柄がある。難波宮は単なる「宮」ではなく、難波「京」の中の「宮」であったという一点である。つまりそこは坊条制を伴った都城であったかいなかが明らかにされなければならない。

 683(天武12)年12月17日条の詔勅に「凡そ都城・宮室、一處に非ず、必ず両参造らむ」という文言がある。つまりここでは坊条制を伴った都城が想定されている。また「各往りて家地を請はれ」という文言も坊条制を前提としていると考えられる。では考古学的にも難波「京」であったことが明らかにされているのだろうか。

 まず、坊条制の存在がはっきりしている後期難波宮の造営の手順について、教科書②は次のようにまとめている。

 後聖武朝になり、神亀3(726)年より 難波宮の再建が始められ、これが一段落すると天平6(734)年9月には京内の宅地の班給が始められている。難波宮の造営とともに京の整備も進められていたと思われる。

 班給された宅地の面積は、三位以上には一町以下、五位以上には半町以下、六位以下には四分の一町以下とされている。

 これをふまえて、前期難波京の造営について次のように述べている。

 このときに宅地の班給が行われているのだから、すでに条坊制の敷地割りをともなう難波京が成立していたと考えられるが、それでは実際にはどのような難波京が施工されていたのであろうか。これまでの研究史を振り返り、近年の調査状況を紹介する。

 難波京の復元は、古地図に残された古道痕跡をもとにした考察から始まった。1888(明治21)年の内務省大阪実測図を検討すると、難波宮の中軸線の南延長線上に「朱雀大路」に相当する古道痕跡が確認できる。この東および西側、とくに四天王寺の東側あたりには、その古道に沿って一辺約265㍍(900尺)もしくはその二分の一の距離の方格地割りが南北に連なって存在していることがわかる。これらの遺存地割りや四天王寺の東門の位置を基準に、900尺の条坊方眼を重ねると、これと一致する道路や橋が随所に確認できる。

 こうした事実に着目し、澤村仁をはじめ複数の研究者より難波京の復元案が示された。その後も多くの研究者によって各種の難波京復元案が示されたが、これらは基本的な条坊街区は一致しており、その差異は京城をどの範囲とするか、施工の時期をいつと考えるかということにかかっている。つまり東西幅を四坊とするか八坊とするか、また南北を何条とし南限をどこにとるかといったことである。

 さらにその計画および施工の時期をいつに求めるか、また前期と後期で京城に変化があるかどうかということであるが、これらは京城の広い範囲に発掘調査がおよぶ以前の考察であり、したがって考古学的な資料の裏付けを欠くという限界があった。

 1980年代になり、文化財保護法の改正を受け、それまでの難波宮跡の範囲内だけでなく広く京城についても発掘調査が行われるようになり、複数の調査区で難波京に関係すると思われる遺構がみつかっている。またこれらの地域の広い範囲は、もともと高低差が大きく開析谷が複雑に入り込む地形であったが、場所によってこれが盛土・整地されていく過程がある程度明らかになってきた。

 資料は断片的であり、明らかに条坊制を示すと思われる遺構は検出されていないなど限界は多いが、これらを紹介し難波京復元の一資料とした。

 下の図の「○」印が前期難波京の遺構が検出された箇所である。教科書②の説明読んでみよう。

難波京


 7世紀中頃から末期にかけて、真東西・南北の方向性をもつ遺構が出現する。上町台地北半部では、難波宮南側(⑦、⑧、⑲、⑬)、難波宮北西側(③)、難波宮東南側(⑫)などで検出されている。

 調査地⑦では東西方向の塀(あるいは建物か)と三基の鍛冶炉が見つかっており、周囲から羽口・鉱滓・砥石などが出土している。鍛冶工房があったと思われる。

 調査地⑧では7世紀中頃の掘立柱形式の建物および塀が検出されている。真東西の方向性をもつ。その南側の調査地⑲では多数の掘立柱建物が検出されているが、7世紀前半以前のものが統一性のない自由な方向であるのに対して、7世紀中頃のものは真東西・南北の方向性が中心となり、また柱穴も大規模なものとなる。この北東部でも後年調査が行われたが、ほとんど同様の結果が得られている。

 調査地⑫では七世紀末期までに真東西方向の溝および道路状遺構がつくられている。調査地⑲では七世紀中頃の南北溝二条が検出されている。また調査地③では7世紀後半の真東西・南北方向の掘立柱建物二棟が検出されている。

 四天王寺東門(⑱)は白鳳期に現在の位置に創建されたことが報告されているが、この位置は遺存地割りから推定される条坊区画と合致する位置にある。

 また調査地⑨では、この時期に斜めの方向をもっていた遺構が大規模に埋め立てられており、朱雀大路隣接地の調査地⑭でも、7世紀末に斜め方向の柵列が撤去され、その後8世紀初頭までの間に南側の谷地形が埋め立てられ整地されている。

 一方、調査地⑪では斜めの道路遺構が7世紀後半まで残り、また四天王寺北隣接地の調査地⑯でも7世紀末期頃に埋められた斜めの溝が検出されている。これは北で約10度東に振る方位であり、上町台地の尾根筋の方位に一致しているが、四天王寺のすぐ北側でも、この時期まで斜行地割りが残っていたということである。

 状況証拠は十分に揃ったと思うが、植木氏(教科書②の著者)はなお慎重だ。

 以上のように、難波京の条坊遺構については明確にこれと判断できるものは少ないものの、難波宮の周辺部では、正方位をとる遺構は早くは七世紀中頃に出現することが確認できた(⑧、⑲など)。またこの時期に難波宮の南側で、斜めの方向性をもつ遺構が埋めたてられ、整地されている箇所も確認されている(⑨)。これらは条坊制施工の可能性があるものの、前期難波宮の造営と同時にその周辺部もあわせて整備され、これと方位を揃えた敷地割りがなされたもので、条坊制の施 工とは異なるものである可能性があり、即断はできない。

 しかし、私は難波京が坊条制をともなった都城であったことを、もう疑えない。言い落としていたが、579(天武8)年11月条の「難波に羅城を築く」という文言もそのことの文献上の証拠の一つである。同時代の中国・朝鮮の坊条都城は強固な羅城(城壁)で防御されていた。

 ただし、藤原京以後の都城、つまり近畿王朝の都城の場合の羅城は南面の羅城門の両翼だけであり、他の部分は簡単な土塁と溝が設けられていただけだという。
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