2006年9月4日 ホームページ『「日の丸・君が代の強制」と闘う人たちと勝手に連帯するレジスタンスの会』からの引越し完了しました。
《真説古代史・近畿王朝草創期編》(98)

「天武紀・持統紀」(14)


前期難波京の謎(3)
 前期難波宮の造営時期(2)


 「定説」(岩波の補注)は難波宮造営を4時期に区別している。
第1期 前期難波宮
第2期 天武が改造した難波宮
    (朱鳥元年焼失)
第3期 その後再興された難波宮
第4期 後期難波宮

 第2期を設ける論拠は683(天武12)年12月17日条の「先ず難波に都造らむと欲ふ」である。ただ欲しただけで、「実行した」記事はない。考古学的に「改造」が示されない限り、単なるご都合的解釈に過ぎない。

 第3期にいたっては文献上にも全く論拠はない。強いて挙げれば、持統・文武・元正・聖武に難波宮関連記事があるからということなのだろう。しかし「再興」したという記事はない。この第3期設定も、考古学的に「再興」が示されない限り、単なるご都合的解釈に過ぎない。

 まず、第3期の設定が妥当であるかどうか、検討してみよう。そのために前期難波宮の復元図を掲載しておこう。

難波宮平面図
(教科書②より転載)

 686(朱鳥元)年正月の記事によると、前期難波宮は大蔵(省)から失火して宮室は全焼した。このことは、遺構に焼土や炭化物が混入しているという発掘調査からも認められる。また発掘調査では焼け残った施設を次のように記録している。教科書②から引用する。

 前期難波宮の殿舎は、朱鳥元(686)年正月、大蔵(省)からの出火により全焼した。発掘調査により検出された遺構に焼土や炭化物が混入していることから、火災の状況をうかがい知ることができる。ただその後、『日本書紀』(原文では『続日本紀』となっているが、明らかなミスなので訂正して掲載する)持統6(692)年には、難波大蔵の鍬を与えたとの記事がみられることから、焼け残った殿舎もあった可能性がある。先に見た内裏西方官衙遺跡(倉庫群)のうち、北側の特殊な構造の並び倉は焼けた痕跡はみられなかったため、その後も存続していた可能性がある。

 発掘調査から分かった焼け残った倉庫群は、おそらく、朱鳥元年条が焼け残ったと記録している「兵庫職」なのだろう。あるいは「兵庫職」以外にも焼け残った施設があったということだろうか。いずれにしても宮室は全焼している。では文武天皇や元正天皇が行幸したと『続日本紀』が記録している難波宮とはどのようなものだったのだろうか。教科書②では次のように推測している。

 難波には小郡宮をはじめいくつかの官衙施設もあったためこれらが宿泊所とされた可能性はあろうが、難波官自体もこれらの行幸に対応できる状態には整備されていた可能性もある。


 文献的にも考古学的にも「再興」の痕跡はないのだから、これが妥当な判断と言えよう。また、文武や元正の難波行幸の目的が記録されていないことを先に指摘したが、その目的を教科書③は次のような説を紹介している。

 なお、飛鳥・奈良時代の歴代天皇は難波に行幸をくり返しでいるが、その際注目されるのは、即位の2年または3年後に難波に行幸している場合が複数あることである。とくに文武天皇、元正天皇、聖武天皇はこれにあたるが、これらの行幸はいずれも大嘗祭の翌年であることから、天皇の即位儀式のうちの八十島祭を行うためではないかとの意見がある。八十島祭とは難波津に壇を設けて神琴の音にあわせ天皇の衣装を振り、その後、禊を行い国土の統治者としての宗教的資格を得るというものであるが、難波宮はその際の準備施設としての意味があったのではないかと考えられている。

 私には「八十島祭」というのは初めて聞く祭儀だが、納得のいく説である。当時の宮廷人にとっては自明の行事であり、難波行幸の目的はことさら記録する必要がなかったのだろう。また、この祭儀のための準備施設ということなら、焼失後の難波跡に創られた施設は行宮程度のものであった。記録するほどの工事ではなかった。難波宮跡の造営記事が『日本書紀』にも『続日本紀』にも無いことが納得できる。

 以上より、難波宮を「再興」したという第3期を設けるのは妥当ではない。

 ところで、692(持統6)年条の「難波大蔵の鍬を与えた」という記事について、これはおかしいと私は思っている。難波宮が八十島祭の準備施設程度なら、そこに大蔵を再興するはずもないだろう。つまり、持統6年当時には出火元だった大蔵は存在していない。ではこの記事はどう考えればよいのだろうか。

 34年遡上させてみよう。「692-34=658」。斉明4年である。『日本書紀』の盗用では干支付きの記事は干支を変えずに盗用しているので、それから元記事の日付の特定してみよう。持統6年4月21日は「丙辰」。斉明4年4月4日が「丙辰」だ。
 斉明記事には難波宮関係記事が二つあった。両方とも九州王朝の史書からの盗用記事である。658年はその二つの記事の間に入る。次のようである。

(1)
655(斉明元)年7月11日の蝦夷饗応記事
「難波の朝にして、・・・饗たまふ」。

(2)
658(斉明4)年4月4日←692年(持統6)年4月21日
「有位、親王より以下、進廣肆に至るまでに、難波の大蔵の鍫賜うこと、各差有り。」

(3)
660(斉明6)年12月24日の筑紫派遣軍準備記事
「天皇難波宮に幸す。・・・」

 三つの記事に関連性はないが、今まで見てきた「天武紀・持統紀」の盗用法則からは上のようになる。

 (2)には「進広肆」という位階が書かれている。これは天武14年に定められた位階のうちの最下位の位階である。つまり(2)は全ての王族・官僚に鍬を与えたと言っている。一人あたり1本の鍬を与えたとしても相当な数である。鉄は貴重品だ。鉄製の鍬は労働を軽減し田畑からの収穫を豊かにする。だからこそ鍬を下賜品目として与える価値がある。その貴重な鉄製鍬の大盤振る舞い。本当かな、と思いたくなる。「進広肆にに至るまで」という文言があるためそのような疑問が出てくる。この記事を「持統紀」に持ち込むためには、その時期の位階なら「進広肆」以外でもよかったが、そのために起こる不可解さにもかかわらず、『日本書紀』編纂者はともかく「進広肆」を挿入することによって「持統紀」の記事らしくした。このように考えるのは不当だろうか。
スポンサーサイト
 コメント
この記事へのコメント
コメントを投稿する
URL:
Comment:
Pass:
秘密: 管理者にだけ表示を許可する
 
 トラックバック
この記事のトラックバックURL
http://adat.blog3.fc2.com/tb.php/1537-0b9c34f9
この記事にトラックバックする(FC2ブログユーザー)
この記事へのトラックバック