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2006年9月4日 ホームページ『「日の丸・君が代の強制」と闘う人たちと勝手に連帯するレジスタンスの会』からの引越し完了しました。
《真説古代史・近畿王朝草創期編》(97)

「天武紀・持統紀」(13)


前期難波京の謎(2)
 前期難波宮の造営時期(1)


 以下の書物を教科書とします。 ①山根徳太郎著『難波の宮』(学生社 2002年)
②植木久著『日本の遺跡37 難波宮跡』(同成社 2009年)
③『岩波講座日本通史第3巻』(1994年)所収、中野芳治論文「難波宮」

 難波宮跡の発掘調査は1954年から行われている。第9次発掘(1959年)のときに、それまでの聖武天皇造営の難波宮の跡とされていた遺構とは異質の遺構(回廊)が発見された。①から引用する。

 新しく発見された回廊の遺構について、いまその特徴を列挙すれば次ぎの諸点が考えられるであろう。

(1) 時間的に一連をなすと思われる回廊遺構が、第八次発掘地点にも第九次発掘地点にも広範囲に存在していること。
(2) 現在発見されている回廊は、いずれも複廊で、それには門の遺構を伴なっていること。
(3) 聖武天皇難波の宮遺構との複合状態より、さらに時期的にさかのぼる遺構と思われること。
(4) この回廊遺構の各柱間寸尺は、桁行柱間9.6尺(約2m91㎝、梁間6.8尺(約2m6㎝)二間で、従来から発見されている廻廊と比較して、やや小規模の構築になること。
(5) 掘立柱、堀り穴の規模もまた従前のものに比べて、やや小さく、柱穴も直径一尺強であること。
(6) 柱穴および柱の抜穴の埋没土には、たくさんの焼土が含まれていること。
(7) 聖武天皇難波の宮遺構の掘立柱の柱穴および柱の抜穴の埋め土中に、しばしは見られる古瓦の遺存が、この種一時期前の掘立柱の掘穴中にはないこと。
(8) 従前発見した遺瓦中には、罹災の形跡が認められぬこと。
(9) 往古の住居址上に営まれている掘立柱は、その住居址の埋め立てられた上に構築されていること。

 以上の諸点を綜合すると、かつてここ大阪市東区法円坂町を中心として、それに隣擦する地域に、これまで聖武天皇難波の宮址として、われわれが追求してきた遺構に先行する、同じく回廊をともなって非常に広範囲にわたる一大建造物の一群が存在し、しかもその建造物群が、聖武天皇の難波の宮造営以前に、罹災焼失してしまっていたことを知ることができるのである。

 しかもこの地域に見られる広範な整地が、すでに聖武天皇難波の宮造営以前に建造された、これらの一大建造物群の構築よりも先に施行されており、それらの建造物には、瓦は使用されていなかったことが推定されるのである。

 そして、ここに認められる、これら往昔の一大建造物の遺構の規模・構造を考えると、それらはたんなる一個の迎賓館などと考えるべきものでもなく、また前代の宗教的営造物とは違って、宮殿遺構に類するものであることは容易に推測できる。

 とすればこの地域において、聖武天皇の難波の宮造営以前に、どのような、こうした大規模の宮殿建造物群が存在したと考えるべきか。この点に関しては、昭和29年春いらい、難波の宮址の発掘事業を始めていらい、ことにふれて、広く世に訴えつづけてきたことがらである。
 この発見以後、前代の遺跡を前期難波宮、後代のそれを後期難波宮と呼んでいる。前期難波宮が「孝徳紀」が伝える難波長柄豊碕宮であることが「定説」になっているが、これには造営時期をめぐって異論があった。683(天武12)年12月17日条の「先ず難波に都造らむと欲ふ」がその文献上の根拠である。難波長柄豊碕宮は廃墟となって、前期難波宮は天武が新たに造営したものだと言うのだ。また上記発掘報告で明らかなように、前期難波宮は掘立柱建物である。そうした建物の耐用年数、例えば伊勢神宮の式年遷宮が20年であることを、もう一つの大きな根拠としていた。この説に対する反論を③から引用する。


 伊勢神宮の式年遷宮例から掘立柱建物の耐用年数を20年ほどと考え、全面的な造替痕跡のない前期難波宮跡の創建年代は焼失した686年より20年ほどしか遡れず、孝徳朝の難波長柄豊碕宮に比定することはできないとする考えが現在も潜在する。

 しかし、伊勢神宮の式年遷宮の理由を建物の耐用年数や構造的老朽にもとめることの非はすでに指摘されている。事実、天平創建の法隆寺東院回廊や中門などの掘立柱建物が120年にわたって存続した例や、平城宮跡にみられる掘立柱建物の造替が耐用年数ではなく所属組織の改組・改変に伴うものであることを考えると、文献史料と併せて、前期難波宮の遺構が長柄豊碕宮の完成した652年から焼失した686年までの33年間存続したとすることに何の支障もないと思われる。

 この論争は1999年に決着する。②から引用する。

 1999(平成11)年、内裏北西部で行われた発掘調査で「戊申年」の年号を記す木簡が出土した。同時に出土した多数の土器等の年代からこれが西暦648年と断定できることから、前期難波宮の造営時期を7世紀中頃とし、孝徳天皇の難波長柄豊碕宮と考えるべきことが明らかとなった。

 前期難波宮の造営時期は7世紀中頃と決着した。では「定説」は683(天武12)年12月17日条の「先ず難波に都造らむと欲ふ」をどのように解釈しているのだろうか。「定説」の代表として、岩波大系『日本書紀』の補注を読んでみよう。

 仁徳天皇の難波高津宮がこの地方に都がおかれた先例として知られているが、遺跡の上ではまだ実証されていない。先年来、山根徳太郎によって大阪城南方で発掘調査が続行されている大阪市東区法円坂町の宮殿遺跡は、主として掘立柱を用いた建築が重複して痕跡を残したもので、4時期が区別され、第2期の建築のみが火災を受けている事実から、第1期は白雉3年に完成した難波長柄豊碕宮、第2期は天武天皇の時に改造され朱鳥元年正月に焼けた難波宮、第3期はその後再興された難波宮、第4期は神亀3年から天平6年までに改造され、延磨12年に廃止された難波宮に相当すると推定されている。主として第2期の内裏の南半と大極殿あたりの一部、第4期の内裏の南半と大極殿を含む朝堂院の北部などが今までに確かめられた。南北方向の中心線と主要殿舎の位置は動いていないから、内裏の回廊などの規模は変っても、大化以来の伝統はながく守られていたことがわかる。

 「先ず難波に都造らむと欲ふ」は「改造」記事だと、苦しい解釈をしている。この文面をまともに読めば、そんな解釈は成り立たない。この文面だけを論拠にすれば、「前期難波宮は天武が造営した」という解釈の方が正しい。

 では、683(天武12)年12月17日条はどのように解釈すればよいのだろうか。もう一つ問題がある。上の①・②からの引用文で分かるように、ヤマト一元論者は全員「前期難波宮=難波長柄豊碕宮」を自明の前提にしているようだ。(全部調べたわけではないので「ようだ」と言っておく)。前にもちょっと触れたように私(たち)の立場では「前期難波宮≠難波長柄豊碕宮」である。この問題も改めて詳しく取り上げることになろう。次回はまず「683(天武12)年12月17日条」問題を取り上げることにする。
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