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《真説古代史・近畿王朝草創期編》(95)

「天武紀・持統紀」(11)


「朱鳥」改元の謎(2)


 九州年号「朱鳥」の本来の位置686年をずらすことなく盗用したため、それは『日本書紀』年では天武の死去の年という不自然な位置に置かれることになった。これも決して書紀編纂者のうっかりミスではなく、そうせざるを得ない政治的理由があったためである。その理由とは何か。古賀さんは、前回掲載した朱鳥改元記事の前日の「徳政令」記事に注目している。

686(朱鳥元)年7月19日
 詔して曰はく、「天下(あめのした)の百姓(おほみたから)の貧乏(まず)しきに由りて、稲と資材とを貸(いら)へし者は、乙酉(きのとのとり)の年の十二月三十日より以前(さき)は、公私(おほやけわたくし)と問(い)はず、皆免原(ゆる)せ」とのたまふ。

 上の文中の「乙酉の年」とは前年の685(天武14)年を指している。つまり上の詔勅は「685年以前に貸した財物の返済を免除せよ」と貸し方に命じている。そしてその翌日に朱鳥改元が行われた。しかもこの翌年に、上の徳政令に続いて次のような詔勅が出されている。

687(持統元)年7月2日
 詔して曰はく、「凡(おほよそ)そ負債者(もののかいほへるもの)、乙酉年より以前(さき)の物は、利(このしろ)収(と)ること莫(まな)。若し既に身を役(つか)へらば、利に役ふこと得ざれ」とのたまふ。

 今度の詔勅は「利息も免除せよ」「借財を労働で償う場合も、利息分まで働かせてはならない」と命じている。こうした一連の徳政令でが出された背景には、まず白村江での倭軍の壊滅的敗北がある。参戦した国々の経済的・人的損害は計り知れない。672(天武元)年5月に戦勝国唐へ莫大な「戦後賠償」が支払われているが、その負担も相当重かったに違いない。そのような状況の中、それに追い打ちをかけるように、678(天武7)年12月、九州王朝の中枢地・筑紫を大地震が襲っていた。

672(天武元)年5月
12日
 甲冑弓矢を以て、郭務悰に賜ふ。是の日、郭務悰等に賜ふ物は、総合(すべ)て絁千六百七十三匹・布二千八百五十二端・綿六百六十六斤。
30日
 郭務悰等罷(まか)り歸りぬ。

678(天武7)年12月
 是の月に、筑紫國、大きに地動(ないふ)る。地(つち)裂くること廣さ二丈、長さ三千餘丈。百姓の舎屋(やかず)、村毎に多く仆(たふ)れ壊(やぶ)れたり。是の時に、百姓の一家(あるいへ)、岡の上に有り。地動る夕(よひ)に當りて、岡崩れて處(ところ)遷(うつ)れり。然れども家即に全(また)くして、破壊(やぶ)るること無し。家の人、岡の崩れて家の避(さ)れることを知らず。但し會明(あけぼの)の後に、知りて大きに驚く。

 この大地震について、岩波の頭注は『豊後國風土記』の日田郡五馬山条の記事を紹介している。

 飛鳥浄御原宮に御宇しめしし天皇の御世、戊寅の年に、大きに地震有りて、山崗裂け崩れり。此の山の一つの峡、崩れ落ちて、慍(いか)れる湯の泉、處々より出でき。

 重なる人災・天災で窮状にあえいでいた豪族や人民を救うため、一連の徳政令が出された。では、なぜ近畿王朝は『日本書紀』に朱鳥元年だけという年号の記録を残したのだろうか。古賀さんの論考を読んでみよう。

 この天武7年12月条に記された筑紫大地震の痕跡として、高良山のある水縄山地の北側を東西に走る水縄活断層系が知られている。その活断層は曲水の宴遺構が出土した筑後国府跡のすぐ南側100メートルに比高差10メートルの崖として露出しており、その地震により「筑後国府」は大打撃を受けている。

 このような九州王朝中枢地域に発生した直下型大地震により、九州王朝の疲弊は極に達したものと思われる。そして、その8年後の朱鳥元年に「徳政令」が施行されたのである。敗戦後経済の疲弊と地震による被害を被った筑紫の豪族・人民にとって、この「徳政令」は歓迎されたのではあるまいか。と同時に、債権者からは怨嗟の的であったことも十分想像しうるのである。

 古田武彦氏によれば、この「朱鳥の徳政令」は九州王朝側が公布したものとされる。状況から判断しても頷ける見解である。他方、白村江戦に直接加わらず、戦力を温存した近畿天皇家側から見れば、おそらく債権者として「朱鳥の徳政令」に反発し、九州王朝を滅ぼす決断をしたのではあるまいか。

 ところが、701年以後、列島の代表者として名実共に唐からも認知された新しき権力者、近畿天皇家にとって、自らの権力基盤を確かなものとするため、九州王朝影響下の豪族たちへの懐柔策として、「朱鳥の徳政令」を新王朝としても公式に追認するという政治的判断を行った。そのため、自らの新しき史書『日本書紀』に朱鳥元年条の「徳政令」記事を記すことにより、天下に周知させた、そのように思われるのである。

 『日本書紀』が成立した養老4年(720)から34年も昔の「徳政令」を追認しなければならなかった新王朝の政権基盤は、未だ必ずしも盤石ではなかったことがうかがわれるのであるが、九州王朝の影響を払拭するため、近畿天皇家はその後も様々な対応をせまられたようである。たとえば先に紹介した『続日本紀』神亀元年条(724)に見える聖武天皇による詔報も、その一例と思われる。

「詔し報へて曰はく、『白鳳より以来、朱雀より以前、年代玄遠にして、尋問明め難し。亦所司の記注、多く粗略有り。一たび見名を定め、仍て公験を給へ』とのたまふ。」
『続日本紀』神亀元年冬十月条(724)

 白鳳・朱雀という九州年号が近畿天皇家の詔中に現れる貴重な記事であるが、九州王朝時代の僧尼の名籍と実際とが一致しないため、新たに名籍を定めて運用するようにとの、聖武天皇自らの判断が示されている。このように、新王朝が旧王朝からの「行政」の継続に苦心している様子がうかがえるのである。

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