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2006年9月4日 ホームページ『「日の丸・君が代の強制」と闘う人たちと勝手に連帯するレジスタンスの会』からの引越し完了しました。
《真説古代史・近畿王朝草創期編》(94)

「天武紀・持統紀」(10)


「朱鳥」改元の謎(1)


(昨日、アクセス数40万を突破しました。カウントを始めたのは2006年1月30日でした。こんなに多くの人が訪ねてくれるとは思いも及ばなかった。また最近は新しい記事をアップロードすると、すぐに「拍手」をしてくれる方がおります。まだまだ続けるぞ、という思いが湧いてきます。ありがとうございます。)

 『偽装「大化の改新」(2)』で、私は
「九州年号と比べて「白雉」は2年ずれている。また「朱鳥」は1年だけで終わっている。この二つのちょっとした手違いのような違いに対して、大化はどうだろう。50年もずれている。同じ盗用でもここには大きな意図があるようだ。」
と書いた。しかし、「34年遡上盗用」で明らかになったように「白雉」盗用は手違いなどではなかった。明確な意図を持ち、周到な手法を用いての盗用であった。ここで改めて「孝徳紀」にペッタリと貼り付けられた「大化」と「白雉」に対する、九州年号と『日本書紀』年号との対応表を記録しておこう。

大化(孝徳1年~孝徳5年)
(古賀達也さんの論文「最後の九州年号
―「大長」年号の史料批判」によると、
九州年号「大化」は9年間続いている。)

695 持統 9 大化 1 →50年遡上→ 645 大化 1 命長 6
696 持統10 大化 2 →     → 646 大化 2 命長 7
697 文武 1 大化 3 →     → 647 大化 3 常色 1
698 文武 2 大化 4 →     → 648 大化 4 常色 2
699 文武 3 大化 5 →     → 649 大化 5 常色 3


白雉(孝徳6年~孝徳10年)
(九州年号「白雉」は9年間続いている。)

684 天武13 朱雀 1 →34年遡上→ 650 白雉 1 常色 4
685 天武14 朱雀 2 →     → 651 白雉 2 常色 5
686 朱鳥 1 朱鳥 1 →     → 652 白雉 3 白雉 1
687 持統 1 朱鳥 2 →     → 653 白雉 4 白雉 2
688 持統 2 朱鳥 3 →     → 654 白雉 5 白雉 3

(ここから、古賀さんの論文「朱鳥改元の史料批判」(『古代に真実を求めて 第4集』所収)を教科書とします。)

 『日本書紀』年号の「大化」と「白雉」は引き続いて改元されていて、「白雉」は「孝徳紀」とともに終わる。その意味では一応つじつまが合っている。それに対して「朱鳥」の場合はまったく異様である。九州年号「朱鳥」は「686年~694年」の9年間続く。『日本書紀』は朱鳥元年(686)を、時代をずらすことなくそのまま盗用しているが、その1年ぽっきりなのだ。しかもその年は「天武紀」最後の年(天武15年)であり、改元をする理由はまったく見あたらない。なぜこのようなへんてこりんな盗用をしたのだろうか。では『日本書紀』はその改元をどのように理屈づけしているだろうか。次がその改元記事である。

686年(朱鳥元)年7月20日
 元(はじめのとし)を改めて朱鳥元年と曰ふ。〈朱鳥、此を阿訶美苔利(あかみとり)といふ。〉仍りて宮を名づけて飛鳥浄御原宮(あすかきよみはらのみや)と曰ふ。

 この記事について岩波の頭注は次のように記している。

「扶桑略記には「大倭国進赤雉。仍七月改為朱鳥元年」とあるが、おそらくこの改元は天皇の病気平癒を祈ってのことで、天皇が赤色を重んじ(→補注28-二八)、また赤烏・赤雀の祥瑞がしばしば出現したこと(六年十一月条・九年七月条)にちなんだものであろう。」
(「一」「二」は返り点)

 改元の理由を「病気平癒を祈ってのこと」としている。改元の理由としてはすぐに「皇位交代時」「吉祥事を記念」「天変地異などの凶事の忌み事」などが思い浮かぶが、「病気平癒祈願」が改元理由とは私は寡聞にして知らない。また「祥瑞・・・にちなんだ」とも言っているが、それぞれ9年前・6年前の吉祥事である。そんな間の抜けた改元はあり得ないだろう。

 念のため、ヤマト王権が元号を設定できる権力者になった「大宝」以後の改元理由を、ウィキペディア(「元号一覧」)で調べてみた。「病気平癒祈願」は皆無だった。私が知らなかったことでは「辛酉革命・甲子革命」というのがあった。

 朱鳥改元を何とか説明したという頭注者の努力は認めるが、「病気平癒祈願」の「吉祥事記念」もこじつけでしかない。

 ついでなので「補注28-二八」も読んでみた。壬申の乱の記事の中に、大海人軍が不破から近江に入るとき、敵味方の区別がしやすくなるように兵士の衣に赤い印を付けさせたくだりがある。
「其の衆(いくさ)の近江の師(いくさ)と別け難きことを恐て、赤色を以て衣の上に着(つ)く」。
 「補注28-二八」はそれに対する注であった。

「補注28-二八:大海人皇子と赤色」
「 万葉199、柿本人麻呂の歌に、壬申の乱のことを叙して、「捧げたる 幡の靡は 冬ごもり 春さり来れば 野ごとに 着きてある火の 風の共(むた) 靡くがごとく」とあり、古事記の序に天武天皇の功業をのべて「絳放耀兵。凶徒瓦解」とあるように、大海人皇子方の軍は旗にも赤色を用いたらしい。漢の高祖は赤帝の子であると自負し、旗幟に皆赤を用いたと漢書、高帝紀にみえるが、井上通泰は、天武天皇が自らを漢の高祖に擬したことを示すものとしている」。

 いかにも学者さんらしく、文献を渉猟して微細な研究を重ねている。しかし、原文が内包している矛盾・齟齬には気づかない。あるいは気づかないふりをしている。

 この朱鳥改元記事の問題点を古賀さんは次のように分析している。

 天武の末年(15年)7月に突然何の説明もなく改元し、その年の9月9日に天武は没している。そして、翌年は持統元年となり、『日本書紀』中では朱鳥は一年で終わっているのだ。大化は孝徳天皇即位に伴い「改元」され、続いて白雉と「改元」されており、それなりにつじつまはあっているが、朱鳥のみは天武末年の突然の改元という何とも不思議な現れ方をしているのである。

 まだ不思議な事はある。朱鳥にのみ「阿訶美苔利(あかみとり)」と和訓が施されている。年号に和訓とは何とも奇妙ではあるまいか。もちろん、大化・白雉にはない。しかも、朱鳥改元を飛鳥浄御原宮の命名の根拠としているが、これもおかしなことである。両者はほとんど音や意味に関連がない名称だからである。せいぜい「鳥」の一字を共有しているだけだが、「飛鳥」の地名や文字はそれ以前から存在し、この時に初めて使われたとも思われない。同様に飛鳥浄御原宮も天武元年に造られたことが見える。

「是歳、宮室を岡本宮の南に營る。即冬に、遷りて居します。是を飛鳥浄御原宮と謂ふ。」
『日本書紀』天武元年是歳条(672)

 天武元年から末年までの14年もの間、天武が名無しの宮に住んでいたとは考えられない。このように朱鳥改元記事はかなり不自然、不明瞭な記事なのである。

(中略)

 『日本書紀』編者は何故朱鳥のみ、このような盗用の仕方をしたのであろうか。より、常識的に盗用するのであれば、それこそ1年遅らせて、持統元年を朱鳥元年としてもよかったはずである。大化を50年、白雉を2年ずらして盗用したぐらいであるから、1年ずらして持統天皇の即位年にあわせることぐらい簡単にできたはずだ。不審である。

 ちなみに、近畿天皇家による701年の大宝年号建元から、『日本書紀』成立の養老4年(720)までの間、慶雲(704)・和銅(708)・霊亀(715)・養老(717)と改元されているが、各天皇の即位年かその翌年に改元がなされている。したがって、『日本書紀』編者が朱鳥を九州年号から盗用するのであれば、編纂当時の実際の改元と同様に、持統の即位年にその位置をずらして盗用するのが、常識的と思われるのである。

 かつて、九州年号原形論争において、朱鳥は九州年号ではないとする説があった。その主たる理由の一つとして、『二中歴』以外の九州年号群史料の多くは、朱鳥をもたないことが上げられていたが、本稿の帰結から見れば、『日本書紀』の三年号中、朱鳥が最も不自然な位置と記述をもつという史料事実こそ、逆に実在の根拠と考えられるのである。なぜなら、『日本書紀』編者の捏造であれば、それこそ天皇の在位期間や即位年に元年を位置づけるなど、もっとそれらしく捏造したはずであるからだ。しかし、そうはなっていない。

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