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《真説古代史・近畿王朝草創期編》(93)

「天武紀・持統紀」(9)


「34年遡上盗用」の目的とその手法


 「持統紀」つまり『日本書紀』は697(持統11)年8月1日の譲位記事で終わる。そして最後の34年遡上盗用記事は697(持統11)年4月7日の吉野行幸記事である。34年遡上させると663年4月7日。白村江の戦いは663年8月。つまり最後の吉野行幸は九州王朝の天子による最後の百済派遣軍団閲兵のための行幸であった。

 白村江敗戦(663年)から「持統紀」が終わる697年までの34年間には、九州王朝の支配下での白村江敗戦処理・唐占領軍による占領政策の実施など記録されるべき歴史がたくさんあったはずだ。その中でも最も重要なのは九州王朝から近畿王朝への権力移動の経緯であろう。しかし701年から名実ともに中心権力となった近畿王朝は「万世一系」を偽装したかった。そのためには、近畿王朝にとってその34年間の歴史は明るみに出せない事だらけであった。そこで『日本書紀』編纂にあたって、大幅な「削偽定実」(不都合な真実はばっさり削除し、都合よく改竄した記事を挿入)が行われた。具体的にその手法をまとめると次のようになるだろう。

「定実」(ヤマト王権の物指しで取捨選択しつつ残したもの)
① ヤマト王権の歴史部分(例えば「壬申乱」)
② 天変地異
③ 対外的にカットしづらい事(海外の史書との整合性のため)

「削偽」(「削除」した穴埋め)
④ 九州王朝の史書からの盗用改竄。

 34年遡上記事は④の代表例である。つまり、ばっさりと削除した跡を、九州王朝の歴史で主体をヤマト王権に変えれば都合の良い部分を、時代や主体を改竄して挿入したのだ。

 近畿王朝の歴史改竄は成功して、『日本書紀』成立以降、その改竄された歴史が流布されてきた。現代の学者たちのほとんどがその蜃気楼の中で踊っている。もちろん学者だけではない。その学者たちを信じて、ほとんどの国民もだまされている。かくいう私もつい最近までだまされていた一人であった。

 さて、『日本書紀』は白雉・朱鳥・大化と三つの九州年号を盗用している。もちろんその盗用は、今まで見てきたように年号だけを盗用するためではなく、その年代に記録された九州王朝の事績を盗用するためであった。34年遡上に関係する白雉盗用について、九州年号と『日本書紀』年号との対応表を作ってみる。

「白雉」の盗用
(西暦 書紀年号 九州年号)     (西暦 書紀年号 九州年号)

685 天武13 朱雀 1 →34年遡上→ 650 白雉 1 常色 4
685 天武14 朱雀 2 →     → 651 白雉 2 常色 5
686 朱鳥 1 朱鳥 1 →     → 652 白雉 3 白雉 1
687 持統 1 朱鳥 2 →     → 653 白雉 4 白雉 2
688 持統 2 朱鳥 3 →     → 654 白雉 5 白雉 3
689 持統 3 朱鳥 4 →     → 655 斉明 1 白雉 4
690 持統 4 朱鳥 5 →     → 656 斉明 2 白雉 5
691 持統 5 朱鳥 6 →     → 657 斉明 3 白雉 6
692 持統 6 朱鳥 7 →     → 658 斉明 4 白雉 7
693 持統 7 朱鳥 8 →     → 659 斉明 5 白雉 8
694 持統 8 朱鳥 9 →     → 660 斉明 6 白雉 9
695 持統 9 大化 1 →     → 661 斉明 7 白鳳 1
696 持統10 大化 2 →     → 662 天智 1 白鳳 2
697 持統11 大化 3 →     → 663 天智 2 白鳳 3

 上の表を見ると、遡上年数がなぜ34年なのか、という疑問に対する答がハッキリと読み取れる。34年遡上させると九州年号の「朱鳥と白雉」・「大化と白鳳」の年数がピッタリと対応しているのだ。つまり『日本書紀』編纂者は九州年号を「朱鳥→白雉」・「大化→白鳳」と入れ替えて、「白雉・白鳳」の記事の一部を「朱鳥・大化」に貼り付けた。その際、もちろん邪魔な九州年号はカットし、その年号をそれに対応するヤマト王権の大王治世年に書き換えて編纂したのだった。

 この34年遡上と同じ手法が他にもまだあると、正木さんは言っている。その中から一つだけ次のような例を挙げている。

640(舒明11)年9月
 大唐の學問僧惠隠・惠雲、新羅の送使に従い京に入る。
(A) 640(舒明12)年5月5日
 大きに設斎(をがみ)す。因りて、惠隠僧を請(ま)して、無量壽經を説かしむ。

 (A)について岩波の頭注は「白雉三年四月一五日条の前半と酷似する。同事の重出か」と記している。重出記事とされているのは次の記事である。

(B) 652(書紀白雉3)年
4月15日
 沙門惠隠を内裏に請せて、無量壽經を講かしむ。沙門惠資を以て、論議者(ろんげしや)とす。沙門一千を以て、作聴衆(さちやうじゆ)とす。
20日
 講くこと罷む。

 (A)と(B)は明らかに重出記事である。この重出記事の秘密も『日本書紀』の年号で比べても何も分からない。『日本書紀』年号と九州年号との対応表を作ってみよう。640(舒明12)年と652(書紀白雉3)年との差は12年である。
635 舒明 7 僧要 1 →12年繰上→ 647 大化 3 常色 1
636 舒明 8 僧要 2 →     → 648 大化 4 常色 2
637 舒明 9 僧要 3 →     → 649 大化 5 常色 3
638 舒明10 僧要 4 →     → 650 白雉 1 常色 4
639 舒明11 僧要 5 →     → 651 白雉 2 常色 5
640 舒明12 命長 1 →     → 652 白雉 3 白雉 1
641 舒明13 命長 2 →     → 653 白雉 4 白雉 2

 「僧要→常色」・「命長→白雉」が一対一に対応している。ここでも九州王朝の元号「命長」と「白雉」の入れ替えが行われているのだ。

 (A)の方が元記事である。何故なら直前の舒明11年9月にある関連記事が対外的資料なので動かせない。これを白雉3年に貼り付けた。日にちが違っている理由は干支を調べると納得がいく。

 (A)記事は、記事前半の「大設斎す」までが5日(干支は丁酉朔辛丑)の記事で、「因りて」以下は翌日(6日 干支は壬寅)の行事である。しかし残念ながら「書紀白雉3年5月」には壬寅がない。そこで編纂者は干支付きの原文を直近の4月15日(壬寅)に貼り付けた。それが(B)記事である。正木さんは元記事の復元を次のように試みている。

「九州年号『命長』元年(640)五月辛丑(五日)大きに設斎す。翌五月壬寅(六日)、沙門恵隠を内裏に招請、講無量寿経を講ぜしめた。沙門恵資を論議者と為した。沙門一千を聴衆とした。五月丁未(十一日)、講を罷める」。

 ではなぜこのような作為が必要だったのだろうか。これについては正木さんの論考を直接引用しよう。

 なぜそのような切り貼りをおこなったのか。以下は私見だが九州年号「僧要」から「命長」への改元では、九州王朝の天子が崩御し、命長元年5月5日の大設斎はその病気平癒祈願か葬儀の祭事だったのではないか。

 その証拠に舒明12年2月甲戌(7日)の記事に「星、月に入れり」とあるのをはじめ「雲なくして雷なる(11年正月丙辰)」「彗星(同己巳)」等「凶事」を予感させる記事があり、さらに10年は有間湯、11年は伊予湯と、冬季は必ず三月ほどの長期の湯治に出かけている。しかも10年冬は新嘗祭を飛ばしてまで湯治に出かけているのだ。「蓋し有間に幸せるに因りて、新嘗をもらせるか(11年正月)」これは天子の体調の不良を現しているともとれる。

 書紀編者は「九州王朝の天子の崩御記事」を隠すために、このような切り貼りをおこなったのではないだろうか。

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