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2006年9月4日 ホームページ『「日の丸・君が代の強制」と闘う人たちと勝手に連帯するレジスタンスの会』からの引越し完了しました。
《真説古代史・近畿王朝草創期編》(92)

「天武紀・持統紀」(8)


「百姓・僧尼献上」記事(2)


 「686-34=652」年の該当記事は652(白雉3)年9月条だが、前年の651(白雉2)年12月条が関連するのでその記事から掲載する。

(B) 651(白雉2)年12月
 冬十二月の晦(つごもり)に、味經宮(あぢふのみや)に、二千一百餘の僧尼を請(ま)せて、一切經讀ましむ。是の夕に、二千七百餘の燈を朝の庭内に燃(とも)して、安宅・土側等の經を讀ましむ。是に、天皇、大郡より、遷りて新宮に居す。號(なづ)けて難波長柄豐碕宮と曰ふ。

 この記事は難波宮遷都について祈念する式典記事である。「安宅・土側等の經」をあげているので地鎮祭のようなものだろうか。

 ところで、ここで言われている『日本書紀』のウソ「前期難波宮=孝徳の難波長柄豊碕宮」が今でもそのまま流布しているが、繰り返しになるが念のため、孝徳の難波長柄豊碕宮と前期難波宮とは別物である。前期難波宮と呼ばれている宮殿跡に聖武天皇が造営した宮殿が後期難波宮と呼ばれている。この難波宮跡は大阪城のすぐ南にある。

「孝徳紀」の一連の難波宮遷都記事は九州王朝史書の難波副都遷都記事からの盗用である。では難波長柄豊碕宮はどこにあったのだろうか。古賀さんは 「洛中洛外日記第268話」 で、難波長柄豊碕宮は大阪長柄の豊崎(大阪城の北方、淀川に近い)にあった、と推定している。ここの考古学的調査が俟たれる。

652(白雉3)年9月
 秋九月、宮造ること巳(すで)に訖(をは)りぬ。其の宮殿の状(かたち)、殫(ことごとく)に論(い)ふべからず。

 新宮が完成した。「殫(たん)」とは「余す所なくことごとく」という意である。つまり「その宮殿の状、殫に論ふべからず」という文言は、難波新宮殿の規模の大きさと威容の厳かさを表現している。並の宮殿ではない。恐らく坊条を供えた本格的な「京」である。ヤマト王権が初めて造営した「京」は藤原京である。難波長柄豊碕宮が「京」であるわけがない。難波宮跡は現在も大阪文化財研究所によって発掘調査が続けられている。やがてその全容が明らかになるだろう。

(C) 652(白雉3)年12月
 冬十二月の晦に、天下の僧尼を内裏に請せて、設齊(をがみ)して大捨(かきう)てて燈(みあかし)燃(とも)す。
(設齊:法会に食を供すること)
(大捨:愛憎の心を捨てて平等の心に住すること)

 9月に九州王朝の副都難波宮が完成した。それをうけて、新宮において行われた遷宮祈念式典である。

 ここで、記事(B)と(C)の内容構成を比べてみよう。

 どちらも「十二月の晦日」の出来事であり、「僧尼を請せて」「燈燃す」という同類の祈念式典を行っている。ともに出来事についての情報は詳しく記録されている。しかし著しく異なる点ある。(B)には「二千一百余」と僧尼の人数が記録されているが、(C)には人数の記録がない。(C)では僧尼の情報が不完全なのだ。

 では(B)(C)に対して、686(朱鳥元)年の記事(A)はどうだろう。(A)は(B)(C)と同じく12月の記事である。また、(A)では「三つの国高麗・百済・新羅(あるいは筑紫)」の「僧尼62人」と、僧尼の情報はしっかり記録されている。ではその僧尼たちは何をしたのか。出来事の情報をまったく欠いている。つまり(A)と(C)は互いに補完し合う構成になっている。また、(A)の「三国・筑紫」に対して(C)には「天下」という言葉が使われているが、これは「広く国内外から集められた」という意で、この点でも(A)(C)両記事には補完性があると言える。

 以上のような状況から、正木さんは「元は次のような一つの記事だった事を窺わせる」と言い、(A)と(C)を合体させて、「復元私案」を提示している。

652年(白雉3)年
 冬十二月、筑紫大宰、三つの国高麗・百済・新羅の百姓男女、井せて僧尼六二人を献れり。晦に、天下の僧尼を内裏に請せて、設斎して大捨てて燃燈す。

 このような復元が妥当であることを、正木さんは復元記事を「孝徳紀」全体の中に位置づけて検証している。これについては、正木さんの文章をそのまま引用しておこう。

 (A)記事には「高麗・百済・新羅」三国からの百姓・僧尼献上が記されているが、三四年遡上した孝徳期は、毎年のように高麗・百済・新羅から朝貢があったとされ、時代背景ともピッタリ一致する。

[書紀白雉元年(650)]
 夏四月に、新羅、使を遣して貢調る。或本に云く、是の天皇の世に、高麗・百済・新羅、三つの国、年毎に使を遣して貢献るといふ。

 さらに、淳足・磐舟橋などを設け、蝦夷経略に乗り出していた(書紀大化3から4年・647から648年)情勢から、難波遷都に関連して筑紫から送られてきた、高麗・新羅の「投化」人をさらに東国の常陸・下毛・武蔵などに移住させて、まことに自然なのだ。

 結論として、朱鳥元年の(A)記事は、三四年前の「書紀白雉3年(652)12月晦の、難波長柄豊碕宮における、遷都に関する祈念式の記事から、諸外国からの僧尼などの派遣部分を切り抜き、持続称制前紀、朱鳥元年(686)12月に貼り付けたもの」となろう。また持続元年(687)の高麗・新羅人の東国移住記事も、同様に書紀白雉4年(653)のこととなろう。

 そうすれば、高麗・百済の百姓男女らを、無理に滅亡した諸国の「遺民」とする必要はない。また、本国に連絡もない内に、戦勝国新羅の「帰化人」が「献上」される不自然もなくなるのだ。

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