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《真説古代史・近畿王朝草創期編》(91)

「天武紀・持統紀」(7)


「百姓・僧尼献上」記事(1)


686(朱鳥元)年12月19日
 天渟中原瀛真人天皇(天武の和風諡号)の奉為(おほみため)に、無遮大会(かぎりなきをがみ)を五つの寺、大官・飛鳥・川原・小墾田豊浦・坂田に設く。
(A) 686(朱鳥元)年閏12月
 筑紫大宰、三つの國高麗・百濟・新羅の百姓男女、幷て僧尼六十二人を獻れり。

 (A)は9月9日に死去した天武の葬儀のため、高麗・百済・新羅の人民・僧尼が筑紫大宰を通して献上された、という意に読める。この後の、高麗・百済・新羅の人民や僧尼関連記事を取り出すと次のようである。

687(持統元)年
3月15日
 投化(おのづからにまうおもぶ 「帰化」と同意)ける高麗五十六人を以て、常陸國に居らしむ。田賦(たま)ひ稟受(かてたま)ひて、生業(なりわひ)に安からしむ。
3月22日
 投化ける新羅十四人を以て、下毛野國に居らしむ。田賦ひ稟受ひて、生業に安からしむ。
4月10日
 筑紫太宰、投化ける新羅の僧尼及び百姓男女廿二人を献る。武蔵國に居らしむ。田賦ひ稟受ひて、生業に安からしむ。

 さて、記事(A)には不審な点がある。高麗・百済・新羅からの献上とあるが、百済は660年、高麗(高句麗)は668年に滅亡しているのだ。また、新羅は倭国に対しても戦勝国である。戦勝国が敗戦国に人民や僧尼を献上するなどあり得ない。

 この不審点を岩波の頭注は「これら両国の遺民と新羅からの帰化人男女・僧尼」と説明して、辻褄を合わせようとしている。つまり百済・高麗の人民たちは国家滅亡の時に倭国に逃れてきた遺民であり、新羅の人民たちも「帰化人」であり、それらの人々を筑紫大宰が献上した、と解しているようだ。しかし、もし遺民であれば、彼らも当然「帰化」したでろう。「遺民」「帰化人」と分ける必然性はない。また、「帰化人」はあくまでも「帰化人」であり、献上「人」ではあり得ない。(A)の後の記事では「帰化人」に対しては、はっきりと「投化」と表現している。正木さんの論考を読んでみよう。

 しかし、高麗は20年、百済に至っては26年も前に滅亡している。亡命当時20才だった者は46才、30なら56、すっかり年取った爺さん婆さんだ。そうした国の「遺民」が、今ごろ登場するのはおかしい。

 彼らはこの間何をしていたのだろう。高麗・百済は旧友好国。奴隷扱いをしていたとも思えない。亡命者として、新たな居住地で新しい生活の年輪を重ねていたに違いない。20余年もたてば結婚もし、子や孫も出来ている者もいるだろう。地域で欠かせぬ職についている者もいるだろう。今更彼らを、地域や家庭から「引っぺがして」連れてきたというのだろうか。

 また、戦勝国の新羅人が、敗戦国日本に「帰化」し、なおかつ、彼らが滅ぼした百済や高麗の遺民と共に行動するのも不審だ。要するに「時代」が合わないのだ。

 更に、僧尼らも(文面上は三国の僧尼か、筑紫の僧尼かは決定しづらいが)これら諸外国から献じられたとすれば、持統天皇が使者を新羅に派遣し、天武の喪を新羅に告げたのは持統元年1月。それ以前に新羅が男女・僧尼等を献ずるというのは、より一層不自然なことになる。

 では上の不審点はどう理解したらよいのだろうか。そう、34年遡上させて検討してみればよい。「686-34=652」。652(白雉3)年にどのような記録が残されているだろうか。
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