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2006年9月4日 ホームページ『「日の丸・君が代の強制」と闘う人たちと勝手に連帯するレジスタンスの会』からの引越し完了しました。
《真説古代史・近畿王朝草創期編》(90)

「天武紀・持統紀」(6)


「持統紀」の蝦夷朝貢記事(2)


 正木さんは越・陸奥・柵養・津刈の各蝦夷人数を調べている。

越の蝦夷
 Eによると越の蝦夷は99人。Dの「道信」を加えて100人
陸奥の蝦夷
 Eの95人だけ。
柵養の蝦夷
 Eに9人。これに脂利の古男・麻呂・鉄折の3人を加えて12人。
津刈の蝦夷
 Eの6人だけ。

 以上の合計「100+95+12+6=231」人、となり、これもBの蝦夷の合計人数とピッタリ一致する。

 次にAとBは同じ年の11月、12月と連続している記事だから次の推測が成立する。

① A時点の蝦夷190余人。
② Bの内訳の越(100人)・陸奥(95人)・柵養(12人)・津刈(6人)「足して190余」となるのは、越と陸奥の組み合わせだけである。
③ したがってA(持統2年11月→白雉5年11月)の朝貢は越と陸奥の蝦夷で計195人だった。

 この195人はEの越(99人)と陸奥(95人)の計194人と比べて一人多い。これはAとEの間に越の蝦夷「道信」が一名出家しているのための差である。

 ここまで見事に一致していたら、もう偶然の一致とは言えまい。もともとあったA・B・C・D・E・Fという蝦夷朝貢記事からA・B・C・Dを切り取って、それを「持統紀」に貼り付けたことが明らかとなった。改めて事実関係を復元しておこう。

A 白雉5年11月
 越・陸奥の蝦夷195人が誄をおこなった。
B 白雉5年12月
 Aの後に柵養12人・津刈6人が加わり、蝦夷は213人となった。
CD 6斉明元年1月
 柵養(3人)と越(1人)の計4人が出家して抜けた。
E 斉明元年7月
 饗宴に参加した蝦夷は209であった。

 『日本書紀』は盗用した原史料(九州王朝の史書)は驚くべき正確さで事実を記録していたことになる。

 「斉明紀」の蝦夷朝貢記事が「孫盗用」記事であることを示す事柄がもう一つある。 『「斉明紀」の北方遠征(1)』 で掲載した655(斉明4)年4月条の記事の蝦夷征討の対象となっている蝦夷は「齶田(あぎた)・渟代(ぬしろ)、二郡(ふたつのこほり)の蝦夷」であった。これに対して「持統紀」の登場する蝦夷は越・陸奥の蝦夷である。蝦夷と倭国との関係では地理的遠近は時系列と密接に関連していると考えられるが、ここでは地理的遠近と時系列が逆方向を指しているのだ。

 最後に正木論文①の終りの文章を引用しよう。

 更に不審なのは、持統紀(3年1月3日)に朝貢記事のある蝦夷が「越・陸奥(出羽)」などの南部の居住地域の蝦夷であり、30年以上前、斉明元年から四年にかけての蝦夷征伐と朝貢記事が「秋田・能代・津軽」など北部居住の蝦夷で「南北が逆転」していることだ。蝦夷征伐の地理的順序を常識的に考えると近(南)から遠(北)だ。持統紀蝦夷朝貢は本来白雉5(孝徳10)年及び斉明元年の出来事で、本来はそれに続いて斉明元年から4年の蝦夷関連記事があったという証拠になるだろう。

 持統紀の「蝦夷朝貢」は、34年遡上った孝徳・斉明時代の出来事だった。古賀氏が既に述べられているとおり、九州王朝は、緊迫する唐や朝鮮半島の状況を踏まえ、難波遷都を決行するとともに、背後の憂いをなくすため蝦夷征伐(東北経営)に乗り出した。そして、新たに支配下となった蝦夷の朝貢に関する記事が、持統紀に持ち込まれたのだと考える。

 上の引用文中に「難波遷都」という言葉が出てきた。これは古賀さんが研究している問題で、前期難波京は九州王朝の副都であるという。もちろん、孝徳の難波長柄豊碕宮は前期難波京とは別物である。この問題もいずれ取り上げようと思っている。
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