FC2ブログ
2006年9月4日 ホームページ『「日の丸・君が代の強制」と闘う人たちと勝手に連帯するレジスタンスの会』からの引越し完了しました。
《真説古代史・近畿王朝草創期編》(88)

「天武紀・持統紀」(4)


天武の葬儀記事(2)


 668(白鳳8・天智元)年に亡くなったはずの伊勢王が登場している記事は剽窃記事と考えてよいだろう。どこからの剽窃か。遅すぎる埋葬記事が置かれている688(持統2)年を34年遡上してみよう。「688-34=654」。白雉5年である。この年は孝徳在位10年目の年で、この年に孝徳は死去している。その前年に、孝徳と王族(中大兄など)との間に次のような事件があった。

是歳、太子(ひつぎのみこ)、奏請(まう)して曰さく、「冀(ねが)はくは倭の京に遷らむ」とまうす。天皇、許したまはず。皇太子、乃ち皇祖母尊(すめみやのみこと)・間人皇后(はしひとのきさき)を奉(ゐてまつ)り、幷て皇弟(すめいろと)等を率て、往きて倭飛島河邊行宮に居します。時に、公卿大夫(まへつきみたち)・百官(つかさつかさ)の人等、皆隨ひて遷る。是に由りて、天皇、恨みて國位(くに)を捨(さ)りたまはむと欲(おもほ)して、宮を山碕に造らしめたまふ。乃ち歌を間人皇后に送りて曰はく、

鉗(かなき)着け 吾が飼ふ駒は 引出(ひきで)せず 吾が飼ふ駒を 人見つらむか


 太子(皇太子)は中大兄、皇祖母尊は皇極(後に重祚して斉明)、皇弟は大海人である。間人は斉明と合葬されたあの斉明の娘である。中大兄・大海人も皇極の子である(とされているがあやしい)。また孝徳は斉明の同母弟である。

 さて上の事件。孝徳は難波長柄豊碕に新宮を建て、そこを都にしていた。中大兄は都を大和に還したいと願ったが、孝徳は聞き入れなかった。すると中大兄は王族・貴族・官僚すべてを率いて大和に還ってしまった。たいへんないびり、というより謀反と言ってもよいだろう。孝徳1人だけ難波に残された。身の回りの世話をする舎人や采女が何人かは残っただろうが、難波には政治機能はまったくなくなってしまった。もともと孝徳は傀儡大王であったが、ここで完全に見捨てられてしまったことになる。ひどい話だ。

 ちょっと横道へ。
 「近江遷都(23)」 でチョット触れたように、孝徳の子の有間は後に蘇我赤兄に謀られて謀反人に仕立て上げられる。そのとき斉明は政府要人を引き連れて紀の湯に滞在していた。赤兄に捕らえられた有間は紀の湯に送られる。そこで中大兄の尋問を受けるが、有間は弁明をせず、ただ「天(あめ)と赤兄と知らむ。吾(おのれ)全(もは)ら解(し)らず」と述べただけだった。そして有間は紀伊の藤白阪という所で絞殺刑に処せられてしまう。『万葉集』に、そのときに有間が詠んだ歌二首(141番・142番)が残されている。私が好きな歌の一つで、若いころ暗唱したものだった。

有間皇子、自ら傷(いた)みて松が枝を結ぶ歌二首

磐代の浜松が枝を引き結び眞幸(まさき)くあらばまた還り見む
家にあれば笥(け)に盛る飯(いひ)を草枕旅にしあれば椎(しひ)の葉に盛る


 たぶん、紀の湯に護送されたときの歌だろう。まだどのような処分を受けるのかわからず、不安と孤独の思いにうちひしがれながらも、「真幸くあれば」と生への希望をともし続ける旅、旅と言うにはあまりにも過酷な旅ではあった。ちなみに、「松が枝を引き結ぶ」という習俗は、犬養孝『万葉の旅』によると、「遊離する魂を木の霊力にたよって結び止め生命の長久を祈る」樹木信仰の一つだという。

 本道に戻ろう。
 孝徳の死は大王としてはまったく不本意な死だったことだろう。憤死と言ってもよいのではないか。『日本書紀』は孝徳の死を次のように記録している。

654(白雉5)年
(10月1日)
皇太子、天皇病疾(みやまひ)したまふと聞きて、乃ち皇祖母尊・間人皇后を奉りて、幷て皇弟・公卿等を率て、難波宮に赴く。
(10日)
天皇、正寝に崩りましぬ。仍りて殯を南庭に起つ。小山上百舌鳥土師連土徳を以て、殯宮の事に主(つかさど)らしむ。
(12月8日)
大坂磯長陵に葬りまつる。是の日に、皇太子、皇祖母尊を奉りて、倭河邊行宮に遷り居(ま)したまふ。老者語りて曰く、「鼠の倭の都に向ひしは、都を遷す兆(きざし)なりけり」といふ。

 これだけだ。天武の死亡関連記事と比べて、何ともそっけない。死亡後すぐに殯宮が設けられたが、2ヶ月ほど後の埋葬までなんの葬儀も行われていない。陵墓造営に2ヶ月かかるとして、その間に全く葬儀が行われなかったとは変だ。いくら傀儡大王だったからといえ、死後までも余りにも酷い仕打ちではないだろうか、と考えることもできるが、いくらなんでも何もせずに放置して2ヶ月後に埋葬するというのは不自然だ。この状況には死者にむち打つ所業というような意味合いはなく、2ヶ月間の葬送儀礼の記録がカットされたと考えるのが妥当だろう。そう、そのカットされた記録が「持統紀」の天武の葬儀の記事として貼り付けられたのだ。

 上で判断したカット・貼り付けが正しいことを示す根拠がある。『日本書紀』の日付は干支で表わされているが、これまで読むときに煩わしいので、算用数字で記載してきた。持統2年11月の葬儀記事の日付を干支に戻してみよう。

11月4日→冬十一月の乙卯(きのとのう)の朔戊午(つちのえうま)
5日→己未(つちのとのひつじ)

一方、「孝徳紀」の孝徳の死亡・埋葬記事の干支日付は次の通りである。

10月10日→壬子(みづのえね)
12月8日→十二月の壬寅(みづのえとら)の朔己酉(つちのとのとり)

 654(白雉5)年の10月10日~12月8日の干支日付は次の通りである。

壬子(10月10日) 癸丑 甲寅 乙卯 丙辰 丁巳 戊午 己未 庚申 辛酉 壬戌 癸亥 甲子 乙丑 丙寅 丁卯 戊辰 己巳 庚午 辛未 壬申 癸酉(11月1日) 甲戌 乙亥 丙子 丁丑 戊寅 己卯 庚辰 辛巳 壬午 癸未 甲申 乙酉 丙戌 丁亥 戊子 己丑 庚寅 辛卯 壬辰 癸巳 甲午 乙未 丙申 丁酉 戊戌 己亥 庚子 辛丑 壬寅(12月1日) 癸卯 甲辰 乙巳 丙午 丁未 戊申 己酉(12月8日)

 「持統紀」の干支「戊午・己未」が「10月16日・17日」にある。「持統紀」の葬儀記事をそこに置くと、孝徳紀に欠如していた葬儀の日として復活する。一方、688(持統2)年10月には「戊午・己未」という日付はない。その日付が11月にしかないため、白雉5年10月条の干支付きの記事を切り抜いて、干支を変えずに持統2年条に貼り付けるとき、11月に置かざるを得なかった、といことになろう。
スポンサーサイト



 コメント
この記事へのコメント
コメントを投稿する
URL:
Comment:
Pass:
秘密: 管理者にだけ表示を許可する
 
 トラックバック
この記事のトラックバックURL
http://adat.blog3.fc2.com/tb.php/1527-01b544ca
この記事にトラックバックする(FC2ブログユーザー)
この記事へのトラックバック