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《真説古代史・近畿王朝草創期編》(87)

「天武紀・持統紀」(3)


天武の葬儀記事(1)


 まず「天武紀」の天武の葬儀関連記事を辿ってみよう。

686(朱鳥元)年9月 (9日)
天皇の病、遂に差(い)えずして、正宮に崩りましぬ。
(11日)
始めて發哭(みねたてまつ)る。則ち殯宮(もがりのみや)を南庭に起つ。
(24日)
南庭に殯す。即ち發哀(みねたてまつ)る。
是の時に當りて、大津皇子、皇太子を謀反(かたぶ)けむとす。


 唐突に大津皇子の謀反(実は謀殺)事件の記事が挿入されているが、「持統紀」朱鳥元年10月条に謀反露見記事として引き継がれといる。もしかすると、後に取り上げることになるかも知れない。

 ここで、葬儀礼に出てくる言葉の意味を確認しておこう。
「殯(もがり)」
 遺体を棺に収めて埋葬までの間、仮に安置すること。
「発哀」・「発哭」
 ともに「みね」と訓じられている。声をあげて泣いて哀悼の意を表わすこと。
「誄(しのびごと)」
 死者の霊に向かって哀慕の言葉を述べること。
「奠(みけ)
 死者への供物。

(27日)
諸僧尼、殯庭に発哭りて乃ち退(まか)でぬ。
是の日に、肇(はじ)めて奠進(たてまつ)りて即ち誄(しのびごとたてまつ)る。第一に大海宿禰蒭蒲壬生の事を誄る。次に浄大肆伊勢王、諸王の事を誄る。・・・


ここでは、またしても伊勢王が登場していることを注意したい。

 上の27日の記事はまだ続く。この後、王室や朝廷の種々の役職代表者や各国造の誄が延々と続くが、それは省略する。これほど詳しく葬礼儀式を記録している記事は他に例がない。しかしそれにもかかわらず、9日から27日まで延々と続いた埋葬前の葬礼記事で、「天武紀」はぱたりと終わり、埋葬記事がないのだ。きっと次の「持統紀」に引き継がれて、そこで扱われているのだろう、と考えるのが順当だろう。しかし、「持統紀」でもまだ殯がつづく。埋葬くじが出てくるのは2年以上もたった688(持統2)年11月11日である。「持統紀」の天武葬儀記事を読んでみよう。

687(持統元)年正月(1日)
 皇太子、公卿・百寮人等を率(ゐ)て、殯宮に適(まう)でて慟哭(みねたてまつ)る。納言布勢朝臣御主人、誄る。禮(ゐや)なり。誄畢(を)へて衆庶(もろもろ)發哀る。次に梵衆(ほふしども)發哀る。是に、奉膳紀朝臣眞人等、奠奉る。奠畢へて、膳部・采女等發哀る。樂官、樂(うたまひ)奏(つかへまつ)る。
(5日)
 皇太子、公卿・百寮人等を率て、殯宮に適でて働哭る。梵衆、隨ひて發哀る。
(15日)
 京師の、年八十より以上、及び篤癃、貧くして自ら存(わたら)ふこと能はぬ者に絁(ふとぎぬ)綿(わた)賜ふこと、各(おのおの)差(しな)有り。
(19日)
 直廣肆田中朝臣法麻呂と追大貳守君苅田等とをして、新羅に使して、天皇の喪を赴(つ)げしむ。

 3月~9月の間にもさまざまな葬礼が続く。そして10月にようやく造陵記事が出てくる。

10月22日
 皇太子、公卿・百寮人等并て諸の國司・國造及び百姓男女を率て、始めて大内陵を築く。

 そして翌年、さっそく埋葬するのかと思ったら、まだ殯が続く。必要と思われる記事だけを抜き出しておく。

688(持統2)年正月(1日)
 皇太子、公卿・百寮人等を率て、殯宮に適でて働哭る。
(2日)
梵衆、殯宮に、發哀る。

 まるで正月の年中行事のように前年と同じ儀式が9月まで続く。その中で8月にまた伊勢王が登場する。

8月(10日)
 殯宮に嘗(なふらい)たてまつりて、慟哭たてまつる。是に、大伴宿禰安麻呂、誄たてまつる。
(11日)
 浄大肆伊勢王を命(め)して、葬儀を奉宣(のたま)しむ。

 岩波の頭注は「嘗」を「平常に復するしるしに会食をすること」と解説している。長々と続いた殯がようやく終わったようだ。そしてやっと埋葬。

11月(4日)
 皇太子、公卿・百寮人等と諸蕃(となりのくにぐに)の賓客とを率て、殯宮に適でて慟哭る。是に、奠奉りて、楯節儛(たたふしのまい)奏(つかえまつ)る。諸臣各己が先祖等の仕えまつれる状(かたち)を擧げて、遞(たがひ)に進みて誄る。
(5日)
 蝦夷百九十餘人、調賦(みつき)を負荷(お)ひて誄る。
(11日)
 布勢朝臣御主人・大伴宿禰御行、遞(たがひ)に進みて誄る。直廣肆當摩真人智徳、皇祖等の騰極(ひつぎ)の次第(ついで)を誄奉る。禮なり。古(いにしえ)には日嗣と云(まう)す。畢(をは)りて大内陵に葬(はぶ)りまつる。

12月12日
 蝦夷の男女二百一十三人に飛鳥寺の西の槻の下に饗(あへ)たまふ。仍りて冠位を授けて、物賜(ものたま)ふこと各差(おのおのしな)有り。

 これが持統2年条の最後の記事である。

 天武は686(朱鳥元)年9月9日に死去している。上の葬儀はそれから2年以上も経ってからのものである。しかも687(持統元)年正月にも同様のメンバーで盛大な誄の儀礼がおこなわれていて、688(持統2)年正月には殯宮参りの記事もある。

 また、最後の葬儀礼(11月4日)が命日(9月9日)でもなく、埋葬日(11月11日)でもない日に行われていることも不審だ。

 この長々と書かれた奇っ怪な記録を一体どう解釈したらよいのだろうか。カギはやはり「伊勢王」の中にあるだろう。
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