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《真説古代史・近畿王朝草創期編》(86)

「天武紀・持統紀」(2)


「天武紀」の伊勢王(2)


 「天武紀」の伊勢王記事の年代を34年遡上させて見よう。

683(天武12)年→649(大化5)年
684(天武13)年→650(白雉元)年
685(天武14)年→651(白雉2)年

 なんと、650(白雉元)年とは『日本書紀』における伊勢王初出の年であった。「天智称制の秘密(5):伊勢王とは誰か(1)」で取り上げた白雉改元記事である。必要な部分だけを再録する。(今回は読み下し文で)

 白雉元年春正月の辛丑の朔に、車駕(すめらみこと)、味經宮に幸して賀正禮を観(みそなは)す。是の日に、車駕、宮に還(かへ)りたまふ。
 二月の・・・・十五日、伊勢王・三國公麻呂・倉臣小屎、輿の後頭(しり)を執(か)き、御座(みまし)の前に置く。


 「天智称制の秘密(5):伊勢王とは誰か(1)」 ではもう一つ、652(白雉3)年正月条の次の記事を取り上げた。

三年の春正月の己未の朔に、元日の禮訖(をはりて、車駕、大郡宮に幸す。正月より是の月に至るまでに、班田すること既に訖はりぬ。凡そ田は、長さ三十歩を段とす。十段を町とす。段ごとに租の稲一束半、町ごとに租の稲十五束。

三月の・・・


 そしてこの記事の「正月より是の月に至るまでに」という意味不明の文章に対する古賀さんの論究を紹介した(論文「盗用された改元記事」)。その理路を簡単にまとめてみる。

 白雉時代の年数は「孝徳紀」では「650~654」であるが、本来の九州年号では「652~660」(二中暦)である。『日本書紀』編纂者は白雉を2年ずらして盗用している。従って上の650年2月の白雉改元の儀式はもともと652年の出来事であり、652年正月記事の次にあったものを切り取って650年正月記事の次に貼り付けたのもだ。そのように考えると、あの意味不明の文章がすっきりとつながる。復元してみよう。

652年正月
 車駕、大郡宮に幸す。

二月の・・・・十五日、伊勢王・三國公麻呂・倉臣小屎、輿の後頭(しり)を執(か)き、御座(みまし)の前に置く。

正月より是の月に至るまでに、班田すること既に訖はりぬ。

三月の・・・


 見事な読解だ。

 さらに「古賀事務局長の洛中洛外日記」の「第140話2007/08/26」によると、『皇太神宮儀式帳』に「難波朝廷天下立評給時」(伊勢神宮の文書 804年成立)という一文があるという。「難波朝廷天下」とは孝徳時代を指している。その時代に「評制」が施行されたというのだ。天武紀で「諸國の堺を定めしむ」と言い、孝徳紀で「班田すること」と言っているのは評制施行のことだった。この事実を軸に、前回とり出した天武紀の伊勢王関連記事を分析するとどうなるだろうか。正木さんの論文④から引用する。

 そして伊勢王等が、天下巡行し諸国の境界を定めようとした、「天武12年」を34年遡上した649年こそ、古賀氏の示されたように「神宮雑例集一伊勢国神郡八郡事」に「飯野多気渡会評也」とあり、同時に「己酉の年を以て始めて度会郡を立つ」とある己酉(649年)にあたるのだ。同書頭注には「評ハ郡ノ誤。評ハ郡ノ俗字也」とあることから、伊勢国渡会評がこの年にできた事を示すと考えられる。

 また同史料にある「伊勢国」について、翌天武13年(従って白雉元年650年)に恩賞が与えられている事は、「評」制や任官がこれら地域に先行して施行され、これに伴い恩賞が与えられたと見れば無理なく理解できる。「然是年、不堪限」とあるのは649年段階では東国全体にまで施行することが出来なかった事を示しているのではないか。

 そして650年に東国にも施行を終え(「遣伊勢王等、定諸国堺」)その結果が翌651年の東国「諸国有位人」への恩賞となったのだろう。(「東国に施行」とは、天武14年(651年)に「伊勢王等、亦東国に向る」とある事から読み取れる。また「諸国有位人」と官職名を記さなかったのは、評制に伴う「評督・助督」等新任官者の官職名を隠したのではないか。)

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