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《真説古代史・近畿王朝草創期編》(85)

「天武紀・持統紀」(1)


「天武紀」の伊勢王(1)


 「天武紀・上」(第29巻)は「壬申の乱」だけの巻である。「壬申の乱」についてはすでに取り上げているので、「天武紀・下」から始めよう。(後に「壬申の乱」の補足を行うかも知れない。)

 「壬申の乱(6):度重なる吉野行幸はなぜ?」 で、694(持統8)4月条の記事を取り上げた。まず、これについて簡単に復習する。

夏四月・・・庚申(かのえさるのひ)に、吉野宮に幸(いでま)す。・・・丁亥(ひのとのいのひ)に天皇、吉野宮より至(かえりおは)します。

 31回もある持統の吉野行きの記事の中で、上の記事だけに日についての齟齬がある。この年の4月には「丁亥」という日ないのだ。古田さんは暦を丹念に調べて、660年4月24日が「丁亥」であることを突き止めた。本来660年4月24日にあった九州王朝の記事を持統紀で盗用したとき、『日本書紀』編纂者がここだけ干支の訂正を忘れたという結論にたっしたのだった。「694-660=34」前の記事だったことになる。

 この34年に着目して、正木裕(古田史学会)さんは考えた。

 持統天皇の吉野行幸は持統3年(689年1月18日)が初出。以降、持統11年(697)まで、都合31回の吉野行幸が暦年の経過を追って、順序良く連続している、いわば「セットもの」だ。従って689年~697年までの一連の行幸記事は「セット」で34年遡上る(655年斉明元年~663年天智2年)はずだ。それなら、行幸以外の記事も、同様に三十四年遡るものがあると見るのが自然だ。

 正木さんはこの「34年遡上」現象をテーマに次のような論文をものにしている。


『白村江以降に見られる「三十四年遡上り現象」について』

『朱鳥元年の僧尼献上記事批判(三十四年遡上問題)』

『日本書紀の編纂と九州年号(三十四年の遡上分析)』

『白雉年間の難波副都建設と評制の創設について』 (以下、これらの論文を教科書にします。)

 これらの論文で次のよう4項目が「34年遡上」記事であることを論証している。

(1)
 688(持統2)年11月4日の天武葬儀記事
(2)
 688(持統2)年~689(持統3)年の蝦夷朝貢記事
(3)
 686(朱鳥元)年閏12月の僧尼献上記事
(4)
 683(天武12)年~685(天武14)年の期の伊勢王記事

 (4)からは「34年遡行」現象は「持統紀」だけではなくは「天武紀」にも及んでいることが分かる。「天武紀」:「持統紀」の盗用記事だらけということになる。

 また、この(4)から、私には大いに反省しなければならないことがある。 「天智称制の秘密(4):甲子革令」 で伊勢王の死亡記事を取り上げたとき、私は「伊勢王が登場している記事がもう一つある(天武紀には伊勢王が頻出するが、上の死亡記事の後のことだから当然別人である)」。
と書いた。「天武紀」の伊勢王は別人と、安易な判断を下していたのだ。「天武紀」の伊勢王記事まで盗用記事とは思いも及ばなかった。正木論文(4)から読んでいくことにしよう。

 まず、正木さんが挙げている683(天武12)年~685(天武14)年間の伊勢王関連記事を読んでおこう。

683(天武12)年12月13日
 諸王五位伊勢王・大錦下羽田公八国・小錦下多臣品治・小錦下中臣連大嶋、幷(あわせ)て判官・録史・工匠者等を遣はして、天下に巡行(あり)きて、諸國の境堺を限分(さか)ふ。然るに是の年、限分ふに堪(あ)へず。

 国々の境界を区分させたが、完成しなかったと言っている。

684(天武13)年10月3日
 伊勢王等を遣して、諸國の堺(さかい)を定めしむ。

 再度境界区分を行っている。

684(天武13)年
 是の年、詔したまはく、「伊賀・伊勢・美濃・尾張、四の國、今より以後、調(みつぎ)の年に役を免し、役の年に調を免せ」とのたまふ。

685(天武14)年7月27日
 詔して曰く、東山道は美濃より東、東海道は伊勢より東の諸國の位(くらゐ)有らむ人等に、並に課役を免せ」とのたまふ。

 上の二つは税や課役の優遇処置の記事である。13年の記事について岩波は「この4国に対する優遇は、壬申の乱の関係によるものか」と頭注を付している。

685(天武14)年10月10日
 軽部朝臣足瀬・高田首新家・荒田尾連麻呂を信濃に遣はして、行宮(かりみや)を造らしむ。蓋し束間溫湯(つかまのゆ)に幸(いでま)さむと擬(おも)ほすか。

685(天武14)年10月12日
 浄大肆泊瀬王・直広肆巨勢朝臣馬飼・判官以下、幷て廿人を以て、畿内の役(えだち)に任(よさ)す。

685(天武14)年10月17日
 伊勢王等、亦東國に向(まか)る。因りて衣袴(ころもはかま)を賜ふ。

 境界区分や行宮設営などの課役(10月12日の課役について岩波の頭注は「都城の地を選ぶ事業か」と書いている)の合間に何の功績に対する優遇処置なのかはっきりしない恩賞記事が散見される。また、「諸國の堺を定めしむ」という事業が何のためのどういう意義をもった事業なのかは、『日本書紀』は何にも語っていない。
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