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《真説古代史・近畿王朝草創期編》(84)

「天智紀」(72)


天智の陵墓について


 699(文武3)年10月条の記事によると、斉明陵のほかに天智陵も造られている。天智陵も何とも不可解なのだ。『日本書紀』の天智の死亡に関する記録は年表風にまとめると次のようであった。

671(白鳳11・天智4)年
 9月 天智、病気になる。
 11月24日 近江宮で火災
 12月3日 天智、近江宮で死去
 12月11日 新宮で殯

 これですべて。埋葬記事がないのだ。天智を埋葬したという記事は「天武紀」にも「持統紀」にもまったくない。ただ、壬申の乱勃発直前に、関連する記事が一つだけある。大海人の家来が大友側の動向を報告する記事(672(天武元)年5月是月条)の一節。

是の月に、朴井連雄君(えのゐのむらじをきみ)、天皇(大海人のこと)に奏して曰さく、「臣、私の事有るを以て、獨り美濃に至る。時に朝庭(近江朝のこと)、美濃・尾張、両国司に宣して曰はく、『山陵造らむが爲に、豫め人夫を差し定さだめよ』とのたまふ。則ち人別(ひとごと)に兵を執らしむ。臣、以為(おも)はく。山陵を爲(つく)るには非じ。必ず事有らむと。・・・

 天智の死の翌年のことである。山稜を造る名目で集めた者たちに武器を持たせているという報告だ。素直に読めば、このとき陵墓は造られなかったと読める。当然、埋葬もされていない。天智が改葬されたという記録もまったくないから、とうぜん699(文武3)年に造られた山科の山陵が初めての天智陵ということになろう。ではそれまで、一体、天智のなきがらはどうなっていたのだろうか。ちゃんと亡きがらを葬ったのだろうか。近畿王朝にとっては、「天命開別」という近畿王朝の始祖という意味合いの諡号をつけた重要人物なのに、実に冷淡な扱いだ。このような国記が示す記録状況を勘案すると、『扶桑略記』が記す説話がにわかに真実味を帯びてくる。

〇十二月三日。天皇崩御」同十二月五日。大友皇太子。即為帝位。【生年廿五。】」一云。天皇駕馬。幸山階郷。更無還御。永交山林。不知崩所。【只以履沓落處為其山陵。以往諸皇不知因果。恒事?害。】 山陵山城國宇治郡山科郷北山。【高二丈。方十四町。】」元年壬戌。如来滅跡一千六百一十一年。

 意訳してみる。
「天皇は馬に乗って山階郷に出かけていったが、帰ってこなかった。長いこと山林を探したが、なきがらは見つからなかった。ただ履いていた沓(くつ)が落ちていたので、そこを山陵とした。亡くなった原因は分からない。殺害されたとも言われている。」

 このような説話が残されているのも故なしとしないが、今のところ真相は闇の中としか言えない。天智陵が発掘調査されれば真相が明らかになるだろう。ちなみに、宮内庁は天智陵を現在地名で京都市東山区山科御陵上御廟野町に比定している。

 次の論文には天皇陵比定の経緯や発掘調査要求の歴史が詳しく書かれている。参考までに紹介します。

藤田友治『「天皇陵」発掘調査要求運動の現段階とその意義について』
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