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《真説古代史・近畿王朝草創期編》(83)

「天智紀」(71)


「斉明の陵墓」の追記


 10月4日の東京新聞夕刊・文化欄で、考古学者・米田文孝氏が牽牛子塚(けんごしづか)古墳(奈良県明日香村)の直近の発掘成果の報告記事を書いていた。米田氏は、これまでの発掘成果を総合して、「被葬者は墓誌が出土しない限り断定できないが、状況証拠はそろった」と、牽牛子塚古墳は斉明陵である可能性が大きいと示唆している。

 続いて翌日の朝刊の「はてな ニュース なるほど」という青少年向けの教育欄で 『「斉明陵」特定の決め手は』 と題して、上のニュースを、小学生にも読めるようにと漢字にルビ付きで、分かりやすくより詳しく解説していた。その中に次の一文があり、びっくりした。

「続日本紀には699年に天皇を埋葬し直したと読める記述があります」。

 私は『続日本紀』にそのような記事があるのを見逃していた。さっそく調べてみた。文武3年10月条だった。

冬十月甲午(13日)、詔したまはく、「天下の罪有る者を赦す。但し十悪・強窃の二盗は、赦の限りに在らず」とのたまふ。越智・山科の二の山陵を営造せむと欲(す)るが為なり。

辛丑(20日)、浄広肆衣縫王、直人壱当麻真人国見、直広参土師宿禰根麻呂、直大肆田中朝臣法麻呂、判官四人、主典二人、大工二人を越智山陵に、浄広肆大石王、直大弐粟田朝臣真人、直広参土帥宿禰馬手、直広肆小治田朝臣当麻、判官四人、主典二人、大工二人を山科山陵に遺して、並に功を分ちて修(おさ)め造らしむ。


 埋葬記事ではなく、造陵記事だった。ここに出てくる越智山稜が斉明陵であり、山科山稜が天智陵であるとされている。岩波の補注を読むと、その根拠は『諸陵寮式』のようだ。しかし、埋葬記事はない。埋葬記事がないのは不可解だが、陵を造ったのだから埋葬したのだろう、と「埋葬し直したと読める」と考えてもよいだろう。山稜は造ったが、そのあと何もしなかったと考える方が不自然だ。

 ここで思いついて、念のためウィキペディアの 「牽牛子塚古墳」 記事を読んでみたら、もうすでに直近の発掘成果も盛り込んでいた。東京新聞の二つの記事の内容はすべて含まれていて、充実した内容になっている。最後の陵墓比定に関する部分を引用しよう。

 『日本書紀』には、「天智天皇は、母である斉明天皇の命令を守り、大工事をしなかった」と記している。これは、被葬者を斉明天皇とみなすことについての慎重論の根拠たりうるが、被葬者が斉明天皇であるとした場合でも、葬送者は天智天皇ではないことの論拠ともなりうる。

 そのいっぽうで『続日本紀』には、斉明天皇陵(越智崗上陵)が「修造」されたとの記事が文武天皇3年(699年)のこととして記されており、この記載を根拠に、この年、斉明天皇が文武天皇により改葬されたのではないかと考える研究者もいる。

 「中大兄の動向」 で論じたように、私は斉明葬送のために帰国した一団の中には中大兄(天智)はいなかったと考えているので、牽牛子塚古墳が斉明陵であるか否かに関わらず、「葬送者は天智天皇ではない」という説を支持する。

 また、もし牽牛子塚古墳が斉明陵であるのなら、「文武天皇により改葬された」という説が正しいことになる。発掘の結果、牽牛子塚古墳は初めから合葬用の構造になっていたというから、考古学的にもこの説が成り立つ。ただ、この説を唱えている学者には、それでは改葬前は何処に葬られていたと考えているのか、聞きたいものだ。朝倉には全く触れないだろう。たぶん宮内庁指定の車木ケンノウ古墳だろうか。この古墳と牽牛子塚古墳とはわずか2.5キロしか離れていないという。なぜ改葬の必要があるの?

 さて、米山氏は「墓誌が出土しない限り断定できないが」と慎重だが、私は「牽牛子塚古墳は斉明陵であり、改葬者は文武天皇」という説は正しいと、もうほとんど確信している。この仮説が正しいという前提で、改めて『扶桑略記』の斉明陵記事と「復元」年表の斉明の葬儀関連記事を検討してみよう。

 七月廿四日、天皇崩ず。山陵、朝倉山。【八月。葬喪の夕、朝倉山上に鬼有り。大笠を着け喪儀を臨み視る。人皆これを見る。」陵高三丈。方五町。】大和國高市郡越智大握山陵に改葬す。【十一月、これを改む。】

 最後一文【十一月、これを改む。】の意味がいまいちはっきりと解せなかったが、「11月に改葬した」という意味だろう。上の造陵記事と合わせると納得できる。10月造陵、11月に改葬。

 次は「復元」年表

666(白鳳6・斉明12)年
 7月24日 斉明、朝倉宮で死去
      (朝倉郡恵蘇宿に埋葬)
 8月1日 中大兄皇子、喪のため磐瀬宮に至る。
 10月7日 なきがらは海路を帰途につく。
 10月23日 なきがらは難波に泊まる。
 11月7日 飛鳥川原で殯
667(白鳳7・斉明13)年
 2月27日 斉明・間人大后を小市岡上陵に合葬

 この年表のもとに、私は 「斉明の陵墓」 で、私は次のように書いた。

『「斉明紀」では斉明のなきがらを運んでいって、大和の飛鳥川原で殯をしたことになっている。なきがらを掘り出して運んだのだろうか。そうだとすると、一度埋葬してすぐに掘り出したことになり大変不自然である。私は飛鳥川原での殯、その後の改葬は形式的なものだったのではないかと思う。いまでも故人の身体の象徴として毛髪が用いられているが、「斉明紀」が言う「なきがら」とはそのような象徴的な身体の一部だったのではないだろうか。後に詳しく書く予定だが、この葬送船団には何よりも皇太子とされている中大兄が同行していないのだ。そうした斉明の遺品とともに、斉明と同行してきて朝倉にいた貴族やその妻子たちが大和に帰国した。飛鳥川原では斉明の遺品を用いて殯・改葬を行った。』

 改葬者が文武天皇だとすると、「斉明紀・天智紀」の斉明葬儀記事はすべて偽装記事ということになり、それをもとに判断した私の説も成り立たないことになる。この一連の斉明葬儀記事は・・・まさかとは思うが、あえて大胆な推測をすると、〈『続日本紀』に記録すべき記事を『日本書紀』に挿入した〉。

 最後にもうひとつ。牽牛子塚古墳からの出土品の中に女性のものと思われる歯があったという。そうすると、33年後だからもう遺体は白骨化していただろうが、朝倉から遺体そのものを移送し、改葬したことになる。
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