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526 「良心の自由」とは何か(20)
思想的座標軸の欠落(1)
2006年6月16日(金)


「天は人の上に人を造らず、人の下に人を造らず」

 福沢諭吉のこの言葉の中の「天」とは諭吉にとってなんだったのか。 古田さんはそれは『儒教風の「天」』では決してなく、明らかに『西洋の god―キリスト教の神の翻訳語』として認識されていたはずだという。その キリスト教の唯一神の前で、すべての人間が平等なものとして措定されている。
 しかもその上に、諭吉にとって『自分自身がそういう神を自分の生き方の実質 として所有』していなかったことも明らかだという。

 古田さんは『福翁自伝』の末尾の文章を引用している。

「私の生涯の中に出来して見たいと思ふ所は、……仏法にても耶蘇教にても 執れにても宜しい、之を引立てて多数の民心を和らげるやうにすること」 (『福翁自伝』岩波文庫)

 「民心を和らげる」ために「仏教でもキリスト教でも」よいから、とり入 れたいとは、あきらかに「無神論的」な発想であり、シュタインが伊藤博文 に伝授した発想ともつながる。これは日本近代精神の「思想的座標軸」の欠如 を如実に物語っている。明治の知識人たちがこぞって直面していた問題であっ た。

 この課題を明治の支配者たちは『上からの「倫理宗」的新精神の宣布という 奇抜な形でやりとげようと』した。その典型的な表現が「教育勅語」に他なら ない。

『朕惟フニ我カ皇祖皇宗國ヲ肇ムルコト宏遠ニヲ樹ツルコト深厚ナリ 我カ臣民克ク忠ニ克ク孝ニ億兆心ヲ一ニシテ世世厥ノ美ヲ濟セルハ此 レ我カ國體ノ精華ニシテ教育ノ淵源亦實ニ此ニ存ス爾臣民父母ニ孝ニ 兄弟ニ友ニ夫婦相和シ朋友相信シ恭儉己レヲ持シ博愛衆ニ及ホシ學ヲ 修メ業ヲ習ヒ以テ智能ヲ啓發シ器ヲ成就シ進テ公益ヲ廣メ世務ヲ開 キ常ニ國憲ヲ重シ國法ニ遵ヒ一旦緩急アレハ義勇公ニ奉シ以テ天壤無 窮ノ皇運ヲ扶翼スヘシ是ノ如キハ獨リ朕カ忠良ノ臣民タルノミナラス 又以テ爾祖先ノ遺風ヲ顯彰スルニ足ラン 斯ノ道ハ實ニ我カ皇祖皇宗ノ遺訓ニシテ子孫臣民ノ倶ニ遵守スヘキ所 之ヲ古今ニ通シテ謬ラス之ヲ中外ニ施シテ悖ラス朕爾臣民ト倶ニ拳々 服膺シテ咸其ヲ一ニセンコトヲ庶幾フ』

 ここに露呈している精神的思想的問題点を、古田さんは次のように論述して いる。

 「我が皇祖皇宗国を肇むること宏遠に」としてもっぱらそれが日本精神史を 一貫する「思想的座標軸」であったかのように擬制され、「これを古今に通じ てもとらず、東西にほどこしてあやまらず」と、百教一致的擬制が行われます。
 こういう権力者による「倫理宗」的規範宣言は、まさにその権力者自体が明 治思想界の「空白」を深刻に意識したところに発します。

 このことは権力者はいつも自己の美化、聖化を行うものだといった類の認識 からは説明せられ得ません。それは「古今に通じて」「東西にほどこして」見 るに、こういう修身的宣言が権力者から出されるという事態はそれほど一般的 なものでなく、明治独特のあり方、つまり「座標軸なき精神の空白」時代の中 の絶対主義的(疑似ブルジョワ的)権力の対応を示しているのです。

 しかも、その喜劇性は次のような一例を見ても明らかです。「夫婦相和し」と いう言葉と、明治天皇の後宮(ハーレム)生活、明治 支配者達の花柳界への独特の「相和した」関係(それは待合政治として現在ま で継承されています)、とを対置せしめれば、まずもってその宣言の発布者自 身がその一片の紙片を信じていない、しかしそういう欠落した精神の状況だか らこそこの宣言を出さねばならない、といった自己矛盾が露呈されています。

 ここに「精神」がもっぱら「たてまえ」として、自己の生活実体、事実とは 別の「理想」として説かれるという思想状況が発生しています。これは敗戦後 の現在にも一貫した思想体制です(たとえば、「理想」はそうだが、 「現実は……」といった類の「理想」不信と現実「美化」は、常に生活実 体〈生活の中に生きて己を導く倫理(エトス)〉と 切り離された「たてまえ」として理想を考えることの反映です。したがって 「民主主義」さえ「たてまえ」として上からの規定を受け入れる形になり、封 建的、絶対主義的生活実体の其只中で、「民主主義」という「たてまえ」が尊 重されるという、思想状況を呈することになります)。

(中略)

 由来、明治・大正・昭和の識者達は、口を開けば「思想の混乱」「道徳の無秩 序」を嘆く慣習をもつことになります。戦時中の軍国精神の指導者から敗戦後の 町の識者に至るまでに共通する口吻は、ヨーロッパとも江戸時代とも異なった、 わたし達の時代の特徴 ―いかにヨーロッパから移植された「自由」が未だに重い かを示しています。


 教育勅語にも「自不信教入信」という国民を愚弄する精神構造がまる見えなのだ。

 現今ことさらに道徳の欠如や倫理の退廃を嘆く支配者たちの声がかまびす しい。その原因を戦後の民主主義教育のせいにして、教育基本法の改悪を目論ん でいる。日々絶えることなく報道される彼らの不祥事は氷山の一角でしかなく、 現在この国で最も道徳心に欠け最も倫理観が退廃しているのは誰なのかは明らかだ。もし言うほどに 社会全体が退廃していることが事実だとしたら、それはお前たちの失政と搾取 の結果だろう。自分たちをたなに上げて、庶民にお説教をたれる厚顔無恥ぶりは ほとほとあきれるばかりだ。

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