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《真説古代史・近畿王朝草創期編》(81)

「天智紀」(69)


近江令と庚午年籍(4):なぜ造籍が行われたのか


 「近江令」という命名の仕方にならい、「近江令」・「浄御原律令」に該当する倭国の律令を「筑紫令」・「筑紫律令」と呼ぶことにしよう。

670(天智即位3)年2月
戸籍(へふみた)を造る。盗賊(ぬすびと)と浮浪(うかれひと)を断(や)む。

 なぜこの時期に造籍が行われたのだろうか。「盗賊と浮浪を断む」という一文が造籍の理由あるいは効用を表わしているようだが、こんな単純な問題ではないだろう。

 造籍を規定した筑紫令も含めて、この問題を「なぜこの時期に令が施行されたのか」と言い直そう。この問題については『古田武彦と「百問百答」』(以下、「百問百答」と略す)で古田さんが語っているので、それを引用する。

 それら(「筑紫令」・「筑紫律令」)の「施行」は不可避です。なぜなら「白村江の敗戦」によって、数多くの将兵が死亡したり、捕虜になって“一定期間”帰ってこない。そこには、当然「土地や財産」の所有・権利関係が「不明確化」する。そのため、「他人(親族や近隣者を含む)からの“奪権”問題も、数多く存在したはずです。これらに対する新たな「令」や「律令」の施行は当然「不可欠」です。それが七世紀後半の「白村江の敗戦」以後の実状況です。

 この時期に律令の施行および造籍が不可欠だったことが納得できよう。

 庚午年籍という言葉も『日本書紀』にはない。上の造籍記事の670年が干支の庚午年なので「庚午年籍」とよばれ、『続日本紀』から使い始められている。『続日本紀』には庚午年籍に関わる記事が9件ある。その9件の記事の日付は次の通りである。


 703(大宝3)年7月5日

 714(和銅7)年6月14日

 727(神亀4)年7月27日

 764(天平宝字8)年7月12日

 767(神護景雲元)年3月16日

 773(宝亀4)年5月7日

 781(天応元)年5月29日

 782(延暦元)年12月2日

 791(延暦10)年9月20日

 791年は『続日本紀』が扱っている最後の年である。少なくとも、このおよそ1世紀の間は庚午年籍が氏姓・身分の基準として使われていたことになる。何時廃棄されたのか分からないが、庚午年籍は今はまったく残されていない。

 上の一覧表には、もししかすると取りこぼしがあるかも知れないが、取りあえず随時これらの記事を用いて、庚午年籍とは何なのか調べてみよう。(『続日本紀』に記事は現代語訳で引用する。)


703(大宝3)年7月5日
次のように詔された。
「籍帳を設けることは国家の大きな信にかかわることである。しかし時とともに変更したりすると、必ず偽りが起こる。今後とも庚午年籍を基準とし、また安易に改めることのないようにせよ。」


 庚午年籍を常に戸籍の基準とし保存せよ、言っている。このことは養老律令にも書かれている。「戸令・戸籍条」で
戸籍は、常に5回分(=30年分)を保管すること。遠年のものは、次のものの作成に従って破棄すること。{近江の大津の宮の庚午の年の籍は破棄しない}。({ }は原文の本注)
とうたっている。

「官制大観」 というサイトで養老律令の条文(現代語訳)がすべて読める。これを利用しています。ネットってすごいね。)

 倭国の盟主だった九州王朝はその王朝創設以来一貫して、政治的にも文化的にも、どの分国より先進的であった。権力を奪取したヤマト朝廷は九州王朝の多くの王族・官僚・知識人を登用している。九州王朝に代わって権力の基盤を盤石のものとするためには必要不可欠の施策だった。

 養老律令(大宝律令)は「筑紫律令」を踏襲・改変したものであったろうし、戸籍も庚午年籍を引き継いだのも当然のことだった。すべてを白紙に戻して、まったく一からやり直す実力はまだなかったろう。またそんなことをしたら、諸国の王はじめ民衆の反発・不満が高じて大変な混乱を引き起こしたことだろう。


714(和銅7)年6月14日

若帯日子という姓は国諱に触れるので(成務天皇の実名が若帯日子)、改めて居住地に因んで姓を賜わった。
国造人という姓をもつ者は、人の字を除き国造とした。
寺人という姓は本来は物部の一族である。ところが庚午年籍では、居住地に因んで寺人と名づけた。しかし(寺人の姓では寺奴婢や寺家人などの)賤民や奴婢の身分とまぎらわしい。そこで寺人という姓を除き、改めて本の姓(物部か)に従うこととした。


 庚午年籍が単なる課税のための人民台帳というような役割よりは、むしろ人民の身分や氏姓を確定するための台帳として作られたことがうかがえる。そのような性質の戸籍であったからこそ「庚午年籍を基準とし、また安易に改めることのないようにせよ」という勅が必要だった。②では問題点を朝廷が進んで取り上げて、改姓を決定している。④~⑨の6例は、貴族・官僚や人民が庚午年籍の記録を根拠に改姓を願い出て天皇あるいは朝廷がそれを許可する記事である。

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