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《真説古代史・近畿王朝草創期編》(80)

「天智紀」(68)


近江令と庚午年籍(3):近江令はなかった


(以下は古田さんの講演録「大化の改新と九州王朝」を参考にしています。)

 「近江令はなかった」ことはすでに 「日本国の律令(1)」 「日本国の律令(2)」 で論じていたことを思い出した。ここでは井上説にそって、「日本国の律令」では詳しく触れなかった点だけを補充することにする。

 井上説は近江令の存在を大前提としている。その根拠は「天智紀」の「造籍」記事である。

670(天智即位3)年2月
戸籍(へふみた)を造る。盗賊(ぬすびと)と浮浪(うかれひと)を断(や)む。

 「戸籍を作った」と書いてあるだけだ。この記事から、戸籍を作るからにはそのもとになる「戸令」があったはず、つまり近江令があったはずだと推論しているようだ。その推論が正しいという論拠として(1)と(2)が挙げられている。後世の史料の史料批判も不十分だけど、『日本書紀』には「近江令を作った」という記事がまったくないことには全く触れようとしないのはどうしたことだろう。律令制定という国家の根幹に関わる重要事業を「国書」に記録し忘れたとでも考えているのだろうか。ともあれ井上氏と同じ土俵にのぼって、「近江令があった」と仮定してみよう。

 井上氏は(3)の天武紀10年2月条は「(近江)律令更改の詔で、これが実ったのが(4)の飛鳥浄御原令である」と主張している。しかし残念ながら「浄御原律令もなかった」と言わなければならない。

 (3)をよく読んでみよう。
「朕、今より更(また)律令を定め、法式を改めむと欲す。」
と言っている。つまり「律令を作りたい」と言っているだけだ。そして「天武紀」のどこを調べても「浄御原律令を作った」とは書かれていない。従って天武期に律令が完成した主張する(b)説は文章を誤読していることになり、成り立たない。その限りでは、井上氏が(b)説をとらなかったのは正しい。

 しかし井上氏は「「天武朝の未年に中断され」、天武期には完成しなかったが、「それを発展的に吸収・解消することによって、浄御原令が成立した」と、浄御原令は持統紀に「成立した」と主張している。では(4)も改めて精読してみよう。

(4)
689(持統3)年6月条29日
詔司に令一部廿二巻班(わか)ち賜ふ。

 この記事にはおかしなことが二点ある。一つは、天武は「律令を作りたい」と言ったはずなのに、ここには「令」しかない。「律」がない。これに対しても、「令だけで律はなかった」いや「両方あったのだが、律は作ったが施行しなかった」などいろいろ説があるらしい。そう言えば教科書などでは「飛鳥浄御原律令」とは書いていない。「飛鳥浄御原」と書いている。

 もう一つのおかしい点は、井上氏は浄御原律令は持統期に完成したと言っているが、「持統期」にも「律令が完成した」という記事がない。作った記事がなく、「班賜」記事だけがある。おかしい。この場合も「定説」論者たちは、「持統が班賜した以上は、作完成記事がなくても、完成したことになる」とか「完成したけれども記録は省略されてたのだ」などと考えているようだ。しかし、完成記事がない以上、「作られなかった」のだし、「作られなかった」のに「班賜」したのなら、その「令」はヤマト王権以外の所で作られたものだと考えざるを得ない。

 あくまでもヤマト王権が律令を作ったと主張するのなら、以上のような「ないないづくし」をすべて説明しなければいけない。説明できなければ、(a)・(b)・(c)のどの説も机上の空論でしかないことになる。

 実は、ヤマト一元主義者たちのどの説も空論でしかないことを示す決定的な証拠がある。古田さんは、大阪の四天王寺所蔵の「威奈大村骨蔵器(銅製鍍金)〈慶雲4年、707〉に刻まれた金石文を挙げている。そこには
「以大寶元年 律令初定。」
と、はっきりと刻まれている。これは「大宝元年に律令が初めてできた」という事実が近畿王朝内での常識だったことを示している。

 『「郡評」論争』 で井上氏に軍配をあげたのは当時新たに出土した木簡だった。その木簡に「評」が記録されていたのだった。歴史研究において金石文が第一史料であることを身にしみて知ったであろう氏は律令問題では金石文に見向きもしない。このところ読んできたヤマト王権一元主義者の著書がすべて、自説に都合のよい史料だけを採用し、自説に反する史料は無視するというご都合主義で成り立ってことを思い知らされてきた。井上氏の律令説もご都合主義と言わなければならない。あるいは上記の金石文を氏はご存じなかったのだろうか。

 最後に古田さんの結語に当たる部分を引用しておこう。(〈 〉は私の補足)

 要するに日本列島の中で、律令なんて作れる人間は、天皇家以外、恐れおおくもありえないというのを、論証以前の絶対命題にしてすべての論争、戦後古代史の学者の論文はなされているのです。この土俵の中でされているから、先程のようにいじくっていじくって結論がでないのですよ。〈『日本書紀』の〉文章がこのように不揃いなものですから。

 私は思うのですが、このようなの〈律令をめぐる事柄〉は『日本書紀』を作る直前の話ですよ。七世紀の後半です。皆知っている。本人も知っている。現場にお祖父ちゃんが、お父さんがタッチした、「班賜」したのを見た人達ばかりの中で『日本書紀』はできたのですよ。そこでうっかり、「律令を作った」のを忘れて、書くのを忘れた、などということは、ありえないと思うのです。忘れるにしては、あまりにも、ことが重大すぎます。忘れ得る性質のものではない。にもかかわらず、「近江令を作った」と書いていない。浄御原令なるものも「作った」と書いていない。ということは、ちゃんと作ったとは、書くに書けないものであった。言い換えると、それは近畿天皇家が作ったものではない、ということになってくるのです。

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