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2006年9月4日 ホームページ『「日の丸・君が代の強制」と闘う人たちと勝手に連帯するレジスタンスの会』からの引越し完了しました。
《真説古代史・近畿王朝草創期編》(78)

「天智紀」(66)


近江令と庚午年籍(1)


 『週間金曜日』(9月24日号)のコラム「谷村智康の経済私考」は「超高齢者報道が明らかにした杜撰な多重管理戸籍はそろそろ止めましょう。その代わり……」という表題で、現在の戸籍制度の問題点を論じていた。その文中に次のような一節があった。

 戸籍は、日本人が家族単位で定住していた時代に最適化された、当時としては最先端のデータベースだった。古くは、白村江(はくそんこう)の戦いに敗れて、倭から日本に国名を改めた際に、徴兵と徴税のために導入されたシステムが原型で、いまだに優秀な仕組みであることは、「生きているとは思えない超高齢者」の存在をあぶり出すに役立ったことからもわかる。

 ここで谷村氏が戸籍の「原型」と言っているのは、たぶん「庚午年籍(ごうごねんじゃく)」のことだろう。いずれ「庚午年籍」を取り上げようと思っていたところなので、上の文章にことさら注意が向かったのだった。なお、特に目くじらを立てるほどのことではないが、「倭から日本に国名を改めた」は正確には「倭から日本に権力が移行した」と言うべきだろう。また谷村氏が「庚午年籍」のことを指しているのなら、その頃の国名はまだ「日本」ではなく、弱体化したとはいえ、いまだ九州王朝が中心権力の倭国だった。

 ここで改めて天智即位後の「復元」年表を見てみよう。

668(白鳳8・天智元)年

1月 天智即位

☆6月 伊勢王とその弟王
      日を接いで死去。

☆11月10日 唐占領軍第二陣来る。
     筑紫君薩夜麻を同行。


669(白鳳9・天智2)年

☆百済の王族(佐平余自信、
 佐平鬼室集斯)男女700余人と
 、近江国蒲生郡に移り住む。


670(白鳳10・天智3)年

☆2月 戸籍を作る。
  (いわゆる「庚午年籍」)


671(白鳳11・天智4)年

☆1月6日 冠位26階を制定

9月 天智、病気になる。

11月24日 近江宮で火災

12月3日 天智、近江宮で死去
 私はほとんどに「☆」印(九州王朝の事績という意)を付けた。その理由を述べておこう。

 「「伊勢王とは誰か」(1)」「「伊勢王とは誰か」(2)」で論じたように、伊勢王は九州王朝の天子継承者の可能性が大きい。もしそうなら、唐占領軍が画策した倭国傀儡政権の首長に就任させられたはずだ。その伊勢王とその弟王が日を接いで死去している。この2人の死も単なる病死とは思われない。覇権を一気に奪取しようとした天智・鎌足の謀略だったかも知れない。

 伊勢王とその弟王の死によって、倭国の諸王を納得させるにたる正当性をもった後継者がなく、苦慮した唐は、筑紫君薩夜麻を解放して倭国の天子位に復権させた。もちろん、薩夜麻が唐の意向に沿う政策を遂行するという密約を結んでのことだろう。

 白村江での大敗、唐占領軍の駐留、伊勢王兄弟の死などで、民衆の間でも支配階級の間でも悲嘆と不満が渦巻き、倭国は混乱の極みにあった。薩夜麻がまず行ったことは、混乱した倭国をまとめ直すことであった。その2大政策が「庚午年籍」と「冠位26階の制定」であった。

 私はかつては『日本書紀』の記録通り、664(天智称制3)年の冠位制定は天智によるものと思い込んで、敗戦直後のそのはしゃぎぶりを指摘して、それをヤマト王権が白村江の戦いを戦わなかったことの証左とした。しかし「復元」年表を作るに当たって、664年の記事と671(天智即位4)年の冠位施行記事は重複記事だと確信した。いまここでかつての説を撤回したい。「冠位26階の制定」は薩夜麻による倭国支配階級を取りまとめ直すための懐柔策だったと考える方が妥当だと思う。

 このように見てくると、ヤマト王権の大王に即位した後の天智の業績はほとんど何も残らない。

 さて、それでは「庚午年籍」はどういう意味をもっていたのだろうか。
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