FC2ブログ
2006年9月4日 ホームページ『「日の丸・君が代の強制」と闘う人たちと勝手に連帯するレジスタンスの会』からの引越し完了しました。
《真説古代史・近畿王朝草創期編》(77)

「天智紀」(65)


近江遷都(23):なぜ近江に?(3)


 これまで天智が遷宮先を近江国滋賀郡に求めた理由をめぐるさまざまな説を検討してきたが、考古学的証拠や文献的根拠による論証として納得できるものはなかった。大部分が他資料の切り貼り・改竄・隠蔽で成り立っている『日本書紀』から真実を抜き出すことのむずかしさと危うさを改めて思い知らされたことだった。

 しかし、仮説の根拠となしえる確かな資料が一つだけあった。近江国滋賀郡が百済系渡来人の集住する地であったという点だ。その他の単なる推測・憶測を排除して、この事実だけで考えるほかない。もちろん言うまでのなく、倭国の中心権力は九州王朝であり、ヤマト王権は九州王朝に次ぐ実力を備えていた国とはいえ、九州王朝の分国に過ぎなかったという歴史認識のもとで考えなくてはならない。

 白村江の戦いにヤマト軍が加わらなかった理由は何だろうか。古田さんはじめ多元史観の立場に立つ人たちのほとんどは、斉明の死を契機に「喪に服するため」を理由にしてヤマト軍は遠征軍に加わらなかったと論じている。しかし私は「天智称制期間の記事は斉明紀の切り取り」という立場から「復元」年表を試みたが、その年表では斉明の死は白村江の戦いの後になるので、私は「喪に服するため」という説をとらない。前にも述べたことだが、再述しておこう。

 『日本書紀』が描くヤマト王権史は権力闘争史と呼んでもよいほど王位継承をめぐってさまざまな陰謀・粛清が記録されている。当然のことながら斉明や天智の頃もヤマト王権の権力構造は一枚岩ではなかった。唐・新羅との戦闘参加をめぐっても、親唐派・反唐派が抗争していただろう。取りあえずは反唐派が勝ってヤマト軍を九州へ派遣した。筑紫君薩夜麻のもとで、各地方から招集された王たちによる戦略会議が重ねられたことだろう。ヤマト軍は親唐派(中大兄・鎌足ら)の策略が成功して遠征軍には加わらずに、有明海側の防御を受け持つことになった。

 古田さんは「反唐派」として蘇我氏を挙げている。「乙巳(いっし)の変」で蘇我蝦夷・入鹿は死んだが、蘇我氏が滅亡したわけではない。蘇我氏はなかなかしたたかである。その後も蘇我石川麻呂・蘇我倉山田麻呂などがヤマト王権内の要職について活躍している。そのような状況をとらえて、蘇我氏の権力を確立した蘇我馬子の墓とされている露出した巨石古墳「石舞台」は「乙巳の変」のときに破壊されたものとされているが、古田さんはその説を否定している。東京古田会編『古田武彦と「百問百答」より引用する。

〈質問〉
「第2次大戦後アメリカに占領された日本では、東京だけ占領されたのではなく、主要都市は全部抑えられたのですが、白村江敗戦後、大和は無傷でいられたのでしょうか?」

「大和と無傷」について。

 古代と現代を比較するとき、両者の間には、幾多の興味深い「共通点」があります。けれども、反面、「差異点」もあります。たとえば、「白村江の敗戦」の場合、倭国内には、
 (A) 戦闘勢力 (九州王朝)
 (B) 和睦勢力 (大和勢力)
の二つがありました。おそらく「中間派」もあったことでしょう。

 しかし、今回の敗戦(1945)の場合、そのような「国内分裂」はありませんでした。これは決定的な「差異点」です。

 従って、唐の戦勝軍は、九州では「山城群」や「天子の宮室」や「陵墓」などの破壊は行いましたが、大和へ「大挙侵入」した形跡はありません。その“証拠”として、いわゆる「天皇陵」は破壊されていません。

 この点、たとえば、博多湾岸の「三種の神器」の弥生王墓や筑後川流域の装飾古墳群とは、全く“ちがって”います。

 では、「大和は無傷だつたか。」と問われれば、「否」です。「反唐勢力の蘇我氏の勢力」(斉明天皇の九州進出をささえた)が覆滅されたのです。

 たとえば、あの「石舞台古墳」。蘇我氏の中心的古墳とされていますが、内部は“ガランドウ”です。“ものの見事に”破壊されています。あの装飾古墳群のように。しかも、もっと露骨に、「破壊」をみせつけています。

 それは何か。
 先ず、「通説」あるいは「俗説」のように、「645年の入鹿斬殺の結果、このような破壊が行われた」ものではありません。なぜなら、
①蘇我倉山田麻呂のように、蘇我氏はなお「健在」だった。彼等が「一族のシンボル」のような、この巨大古墳の「破壊」を“うけ入れる”はずはない。
②「中大兄や鎌足と敵対した」から、というのなら、聖徳太子と闘ったという物部氏の墳墓も“あばかれ”ていい。しかし、天理市の石上神宮周辺の物部氏関連の墳墓に、その形跡はない。「石上神宮」そのものも、“崇敬”をうけつづけている。

 以上によっても、右の 「俗説」 は成り立ちにくい。そう思います。では、なぜか。

 古田さんの答は「では、なぜか。」で終わっていているが、この古墳の破壊は蘇我氏が「反唐派」として破れた時の仕業ではないかと示唆していると思う。しかし疑問がある。「斉明紀」に、有間皇子を謀反人に仕立て上げたあの蘇我赤兄が登場する。赤兄は天智に仕えて左大臣にまで上りつめている。赤兄は破壊を“うけいれた”のだろうか。もしそうだとすると、これも蘇我氏のしたたかさを示す事例というべきか。ちなみに蘇我氏は近江朝が「壬申の乱」に破れたときに、一族流罪になり滅亡している。

 さて、「乙巳の変」以後、「天智紀」に再登場するまで『日本書紀』には鎌足について何の記録もない。中大兄もたいした活躍はなく影が薄い。中大兄・鎌足の権力基盤は案外と脆弱だったのではないだろうか。667(白鳳7・斉明13)年3月19日条(近江遷宮記事)に次のくだりがある。

是の時に、天下の百姓、都遷することを願はずして、諫(そ)へ諫(あざむ)く者多し。童謡亦衆(おお)し。日日夜夜(ひるよる)、失火の處多し。

 大きな反対を圧して、遷宮を強行したことがうかがえる。ヤマトを捨て、新天地で権力基盤を再構築しようとしたのではないだろうか。滋賀郡で渡来人が築き上げてきた力量豊かな人材、高度な文化と技術、はたまた盤石な経済力、これらを頼ったのではないだろうか。もしかすると渡来人側からの強い要請があったのかも知れない。

 天智が百済系渡来人を頼ったことから、天智の出自を百済王族とする説や九州王朝の王族とする説がある。その可能性もなきにしもあらずとは思うが、今のところそれを示す確かな根拠はない。深入りするのはよそう。ただ、天武の背後には新羅があったようで、壬申の乱は新羅対百済の代理戦争のような観もある。

 唐・新羅軍は668年に高句麗を滅亡させた。その後、唐と新羅は旧百済領の支配権をめぐって対立していた。676年、新羅は唐の追い出しに成功し朝鮮半島を統一する。そのためもあってか、天武は遣唐使を廃止している。遣唐使が再開されるのは大宝2年である。天武は遣唐使に代わって、遣新羅使を10回も派遣している。新羅からの遣使も24回ある。
スポンサーサイト



 コメント
この記事へのコメント
コメントを投稿する
URL:
Comment:
Pass:
秘密: 管理者にだけ表示を許可する
 
 トラックバック
この記事のトラックバックURL
http://adat.blog3.fc2.com/tb.php/1515-098c5d13
この記事にトラックバックする(FC2ブログユーザー)
この記事へのトラックバック