2006年9月4日 ホームページ『「日の丸・君が代の強制」と闘う人たちと勝手に連帯するレジスタンスの会』からの引越し完了しました。
《真説古代史・近畿王朝草創期編》(76)

「天智紀」(64)


近江遷都(22):なぜ近江に?(2)


 井上氏の基調講演を続けて聞いてみよう。

(中略)

 この渡来人との関係でとりわけ重要なのは、のちほど、林先生のお話にも出てくるかと思いますが、大津京(おおつきょう)、大津宮(おおつのみや)のことでございます。この大津宮が、なぜこの大津の地に営まれたのかは、まだなお解決されていない歴史学上の課題と申してよろしいかと思いますが、多くの方は、大和を離れて近江国に都を営んだのは、さきほどの「古代山城の分布図」からも読み取れますように、当時日本が政治的・軍事的に敵対関係にありました唐や新羅から逃げるためだという説が強うございます。

 確かに、唐や新羅の軍が大和の政権を襲うとすれば、山城がまさにそこに建設されておりますように、瀬戸内海経由の侵攻が予想されます。それを想定して、それらの山城は建設されたわけでありますので、当時の天智天皇を中心とする政権が、このコースによる唐や新羅の侵攻というものを真剣に恐怖していたことが、この山城の築城(幸いにしてそれは役に立つことはなかつたですけれども)からも理解できます。

 したがいまして、そのコースでいえば、大津宮は、大和の国よりも「後退」といいましょうか、後ろであります。つまり、一つの防御線を加えることのできる大津宮を大津に建設するというのは確かに納得できない説ではないのですけれども、しかし私は、いま申し上げましたような、近江の国における渡来人と渡来文化の環境を考えて見ますと、むしろもう少し積極的に天智天皇自身が、あるいは天智天皇政権自身が、そういう積極性を持った遷都のように思うのです。

 「唐や新羅の侵攻というものを真剣に恐怖」してはいたけれども、大津遷宮はその恐怖のためと言うよりもっと積極的な理由があると言っている。そしてそれは大津の「渡来人と渡来文化」に関わると言う。その積極的な理由とは・・・。

 つまり、逃げて大和から大津へ「退いた」と言うのではなくて、大津にむしろ「進んだ」といいましょうか、そのことは高句麗との関係で、私は、理解できるだろうと思っております。

 『日本書紀』の欽明天皇31年(570)4月2日の条(資料3)を見ていただきたいのですが、これは日本に初めて、高句麗(現在の北朝鮮から中国・東北地方にあった国です)から使節がやってきた時の史料です。この公式使節の日本列島への渡来のコースは日本海ルートでありまして、つまり現在の北朝鮮地域から日本海を横断して日本海岸につき、そこから近江を経て琵琶湖を南下して大和政権にアクセスする、そういうコースを初回の高句麗使節は、いみじくも通っております。 BR>
(後略)

(資料3)
570(欽明31)年4月2日
泊瀬柴籬宮(はつせのしばかきのみや)に幸す。越人・江渟臣裙代(えぬのおみもしろ)、京に詣でて、奏して曰さく、「高麗の使人、風浪(かぜなみ)に辛苦(たしな)みて、迷いて浦津(とまり)を失へり。水の任(まま)に漂流(ただよ)ひて、忽に岸(ほとり)に到り着く。郡司(こほりのみたつこ)隈匿(かく)せり。故、臣(やつがれ)顕(あらは)し奏す」とまうす。(以下略)

570(欽明31)年7月1日
高麗の使、近江に到る。

是の月に、許勢臣猿(こせのおみさる)と吉士赤鳩(きしのあかはと)とを遺して、難波津より發ちて船を奴狭波(ささなみ)山に控(ひ)き引(こ)して、飾船を装ひて、乃ち往きて近江の北の山に迎へしむ。遂に山背の高楲(こまひの)の館(むろつみ)に引(こし)入れしめて、則ち東漢坂上直子麻呂(やまとのあやのさかのうえのあたひこまろ)・錦部首大石(にしこりのおびとおほいし)を遺して、守護(まもりびと)とす。更(また)、高麗の使者を相楽(さがらか)の館に饗(あへ)たまふ。


 これらの記事から井上氏は「初回の高句麗使節」の記事であり、高句麗の「公式使節の日本列島への渡来のコースは・・・日本海を横断して日本海岸につき、そこから近江を経て琵琶湖を南下して大和政権にアクセスする」コースであった、という説を引き出している。そしてこのあと井上氏はおおよそ次のよう結論をしている。すなわち、近江大津は、唐・新羅の攻撃に対処する一環として、高句麗との親和外交(軍事的提携)を進める上で恰好の地であった。これが天智が近江に遷宮をした大きな理由の一つである。

 この説は、私にとっては初めて出会った説である。しかし残念ながらこの説も成り立たないことを示そう。

 上記の記事は高句麗からの遣使船が難破漂流して偶然に越の国に流れ着いたことを物語っているにすぎない。この記事から「公式使節の日本列島への渡来のコース」を読み取るのは甚だしいこじつけと言わなければならない。

 この記事には、道君(みちのきみ 土地の豪族か)という者が天皇をかたって、この漂着した高句麗の使人から「調」をだまし取っていたという何とも間の抜けたエピソードがついている。また、高句麗からの国書を読める者がヤマトの史(ふびと)の中には1人もいないで、王辰爾(おうじんに)という百済系渡来人が読み解いたという情けないエピソードも付いている。ともあれ、高句麗の使人たちは手厚い歓待をうけた上で、572(敏達元)年7月に帰国する。その翌年に次の高句麗使節の記事がある。面白いことにその遣使船も難破漂着している。

573(敏達2)年5月3日
高麗の使人、越海の岸に泊る。船破(わ)れて溺れ死ぬ者衆(おほ)し。朝庭、頻(しきり)に路に迷(まど)ふことを猜(うたが)ひたまいて、饗(あへ)たまはずして放還(かへしつかわ)す。仍りて吉備海部直難波(きびのあまのあたひなにわ)に勅して、高麗の使を送らしむ。

 度重なる漂着のため、ヤマトの官吏はこの漂着者が公式の使人であることを疑ったようだ。この記事にもけったいなエピソードが付いている。送使・難波は自分の船に高句麗の使人2人を乗せ、他の高句麗人は高句麗の船に乗せて出発する。途中で難波は荒波を恐れて、高句麗の使人2人を海に捨てて帰ってきてしまう。そして3回目の高句麗から遣使船がやってくる。

574(敏達3年)5月5日
高麗の使人、越海の岸に泊れり。

 今度は漂着ではない。無事に越国に着いている。2人の使人が帰ってこない理由を尋ねにやっていたのだった。調査が行われ真相が判明する。当然難波は断罪された。

 このあとの「高麗使人」の記事は「皇極紀」「斉明紀」「天武紀」に現れるが、それらの記事では到着地あるいは宿泊地はすべて筑紫か難波である。「日本海岸→近江→大和が公式使節団のコース」という断定は、やはりこじつけに過ぎない。

 以上のことは、上のように詳しく調べるまでもなく、私(たち)にとっては自明の事柄だった。中国や朝鮮半島からの使節団はまず倭国の中心権力の地・北九州にやってくると考えるのが当然にして妥当な判断なのだ。あの2回にわたる高句麗船の越国への漂着は、北九州に向かう途中で難破し、対馬海流に乗って流されたと考えれば、2回とも同じような所に流れ着いたことも納得できる。はじめから越国を目指しての難破漂流だったら、もっと北に流れ着いているだろう。
スポンサーサイト
 コメント
この記事へのコメント
コメントを投稿する
URL:
Comment:
Pass:
秘密: 管理者にだけ表示を許可する
 
 トラックバック
この記事のトラックバックURL
http://adat.blog3.fc2.com/tb.php/1514-c9498909
この記事にトラックバックする(FC2ブログユーザー)
この記事へのトラックバック