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《真説古代史・近畿王朝草創期編》(74)

「天智紀」(62)


近江遷都(20):渡来人について補足(2)


 『古事記』の国生み神話は次のように結ばれている。

次に兩兒嶋(ふたごのしま)を生みき。亦の名は天兩屋(あめふたや)と謂ふ。〈吉備兒嶋より天兩屋嶋まで併せて六嶋。〉

 古田さんが『盗まれた神話』「第13章 天照大神はどこにいるか」で、この最後に生まれた「両児島=天両屋=天両屋島」の比定を行っている。少し長いが、その結論部分を引用する。

 わたしの宝探しはまさに“破天荒ともいうへき財宝の埋もれた島”に行き当ったのである。 ―沖ノ島だ。

 この島は福岡県宗像郡大島村に属する。そして地図で見ると、まさに大小二つの島から成り立っている。「沖ノ島」と「小屋島」だ。

沖ノ島3

 ここで注目されるのは「小屋島」という名である。これに対する大きな方、「沖ノ島」は、当然宗像の方から見て“沖の方にある島”という意味でついた名だ。ちょうど出雲から見ての沖の方の島も「隠岐(おきの)島」と呼ばれているように。

 つまり、九州本土側からの命名だ。だが、現地での本来の名。それは「屋島」または「大屋島」だったのではないだろうか。これはその島の地形からついた名だ(四国の香川県にも源平の戦で有名な「屋島」がある。類似の地形を示す名であろう)。とすると、「天の両屋」または「天の両屋島」(原註記にある島名)という名にピッタリだ。

 小屋島の近くに「御門(ごもん)柱」「天狗岩」という、小さな岩礁があり、昔から、この沖ノ島の鳥居にみたてられてきたという。

沖ノ島2

 また沖ノ島の入口(波止)に「御前(おまえ)」という磯があり、ここは禊場(みそぎば)であり、上陸する人はまずここで禊せねばならぬ、とされる(島全体が沖津宮の境内)。ここは宗像三女神のうちの田心姫(たごりひめ)命(多紀理毘売命)を祀る(湍津(たぎつ)姫命 ―中津宮〔宗像郡大島村〕。市杵(いちき)島姫命 ―辺津(へつ)宮〔同郡玄海町田島〕)。

 九州本土の一角(宗像)と海上の二島を結び、約50キロメートルの広大な海域がすなわちこの宗像神社の神域であり、その三点の中の焦点がこの沖ノ島だ。

沖ノ島1

 この島は女人禁制の島、「おいわず様」(不言島)として、神秘のとばりの中に隠されてきた。“島のことを口外しないこと、一木一草でも島外に持ち出さないこと”が守られてきたからである。それが世人を瞠目させるようになったのは、宗像神社の社史編纂を目標とした昭和29年以降の発掘だった。

 第一次
  第一回調査(昭和29年4~6月)
  第二回調査(昭和29年8月)
  第三回調査(昭和30年6月)
  第四回調査(昭和30年10~11月)
 第二次
  第一回調査(昭和32年8月)
  第二回調査(昭和33年8月)

 この両次の発掘の成果は、それぞれ『沖ノ島』(昭和33年)、『続沖ノ島』(昭和36年)の豪華な報告書(単行本)の中に収められている。そして、さらに44年から45年にかけて三回にわたり第三次調査が行なわれている。

 岩上遺跡・岩蔭遺跡等、幾多の祭祀遺跡から陸続とあらわれつづけた縄文・弥生式の土器・鏡類・珠類・紡織具類等々。金指環・金銅製馬具類・金銅製竜頭なども次々と矢継ぎ早にあらわれた。ここで「あらわれた」というのは、他の遺跡のように単に「出土」する、というよりは、あそこ、ここの文字通りの“岩かげ”や“岩のほとり”におかれていたものも少なくなかったからである。

 その「出土」もしくは「出現」財宝のおびただしさのため、やがて「海の正倉院」という“あだ名”をもって知られるようになったけれども、なにしろ“縄文人の生活遺跡”からズーッと一貫して後代(奈良時代)まで遺物がつづきにつづいているのであるから、およそ「正倉院」などとは比較にならぬ、はるかに古く、長い由来をもっているのである。すなわち、「海の正倉院」は「陸の正倉院」に先在していたのだ。

 こうしてみると、この島が朝鮮半島と九州との間の「天国(あまくに)」の限定海域の中で、燦然たる光を放つ抜群の性格をもつ島であることは疑いない。ことにその中心は「祭祀遺跡」であり、宗教性を核心とした島だ。それが国生み神話中の「亦の名」国名「天の・・・」に入っていなかったら、その方がよっぽど、おかしいのではあるまいか。少なくとも、知詞(ちかの)島や女(ひめ)島を入れて、ここを欠くことは考えられない。すなわち、ここが「両児島=天両屋」であることに疑いない。

 「沖ノ島―宗像」九州王朝にとって最重要祭祀場である。そして、その祭祀の開始は4世紀後半などではなく、はるか天孫降臨の頃(弥生初期)にまでさかのぼることになる。

 田中氏の論考に戻ろう。

 また、朝鮮半島に由来するとみられる5世紀代のオンドル状遺構をともなう住居跡も検出されている(『宗像市史』通史編第一巻、宗像市、一九九七年参照)。

 オンドル状遺構とは一般に、竪穴住居内の壁側に設けたかまどから、煙道をすぐには屋外に出さず、それを壁面をはうように室内にのばし入れたものを指す。これで室内の暖をとっていたとみられることから、朝鮮半島のオンドルにちなんでオンドル状遺構と呼ばれ、考古学ではこれを渡来人の存在を示すものとして注目している。

 既述した4世紀後半以降の倭国をとりまく国際環境の変化のなかで、宗像もまた倭王権の外交に積極的に参与し、渡来人を呼び込むチャンスを得ていたらしい。

 やはり北九州にも渡来人の集住を示す遺構・オンドルがあった。しかもその遺構は 5世紀代のものだという。近江滋賀郡のオンドル状遺構は6世紀後半から7世紀前半のものだから、それより1~2世紀もさかのぼることになる。7世紀後半までは九州王朝が権力の中枢であったことを知っている私(たち)にとっては当然の結果ながら、渡来人の集住も北九州が先行していたのだ。ここでも考古学上の成果が「倭王権」とは九州王朝であることを雄弁に物語っている。
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