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《真説古代史・近畿王朝草創期編》(73)

「天智紀」(61)


近江遷都(19):渡来人について補足(1)


 「近江における渡来人の本拠地」 で、論文「古代史からみた渡来人」の著者・田中氏について「田中氏は単純なヤマト王権一元主義から抜け出した、あるいは抜け出そうとしている学者だと感じた」と書いたいきさつから、この学者の基本的立場を詳しく知りたいと思っていた。『倭国と渡来人』という著書があることを知ったので読んで見た。私の買いかぶりだった。田中氏もヤマト王権一元主義にどっぷりと浸かっていた。

 『倭国と渡来人』には上記論文の内容はそっくり含まれている。倭国と日本国を峻別しているのも同様である。しかしこの著書から、田中氏の倭国はあくまでヤマト王権であり、日本国はその倭国の発展したものと扱っていることがはっきり分かった。また「倭の五王」についても買いかぶりすぎていた。私は氏が「定説」ではなく宋書に依拠した論を書いていたのを感心したわけだが、そこだけの話だった。宋書を利用しながら、「定説」と宋書との矛盾は放置して、他のところでは「定説」に従っている。つまり自説に都合のよいときだけ宋書の記述を利用しただけだったのだ。

 しかし、倭国を九州王朝のこととして読んでもそのまま通用する論述部分もたくさんあり、参考になった。今回はそれを利用させてもらうことにした。

 田中氏は、各地に多元的に王権があったという認識を基本的立場としている。そして各地の王(田中氏は首長と呼んでいる)と中心権力の大王との関係を次のような述べている。

 各地の首長が倭王と関係を持ち王権外交に参加することも、これを契機に国際社会から独自にその成果を持ち帰ることも、いずれも首長の対外的機能と結び付いた行動であったことになる。

 そしてこれら首長層に擁されその上に立つ倭王も、倭国の外交を主導し、共同体の維持や首長の権威と結び付く財を国際社会から入手する機会を、各首長層に分配する対外的機能を持った大首長である。要するに、このなかを移動した渡来人・渡来文化は、首長と共同体成員の関係を介して立ち現れる「内」と「外」が、首長間の関係などを通してさらに重層化・多元化した倭の社会を、相互に結び付けるものであった。

 このくだりは「倭国=九州王朝」と読んでも何の違和もない。大王が代表する部族国家はまずはいわゆる外的国家(共同体―即―国家)として立ち現れるという国家論に正しく対応している。そして部族国家の構成の仕方や大王と各地の王との関係もまさにこの論述の通りと考えてよいだろう。( 「<部族国家>とは何か。」 を参照してください。)

 朝鮮半島経由でもたらされた渡来人・渡来文化がまず北九州にやってきたであろうことは、私(たち)にとっては当然の推論である。そして「倭国=九州王朝」は、その渡来人・渡来文化と接する機会を各地王権に分配する対外的機能をになっていたことも。だとすれば、北九州にそれを示す考古学的遺構・遺物がなければならない。それがあるとこを田中氏に教えられた。その部分の論考を論評を加えながら読んでいこう。

 ところで、王権をとりまく緊迫した国際情勢にあって、軍事行動を含む王権外交の実務は、大王周辺に集う各有力首長層が担っていたことはすでに述べたとおりである。例えば葛城襲津彦(かつらぎのそつひこ)は、新羅の「質」をめぐる王権間の紛争を受け、加耶南部に駐留し、渡来工人を略奪し帰還したと伝えられる。大王の意を受けた首長らは、船に人や武器を積み込んで大海を渡っていた。そして、加耶などから先進的な技術・技能を持った工人を獲得し、自らの本拠地に招き入れる機会も得ていた。これと同様のことが、大王宮を抱えた近畿のみならず、それ以外の地でも起こっていたとみられる。

 葛城襲津彦は岩波の補注が漢人の解説で取り上げていた神功5年3月条に出てきた人物、新羅から俘人(とりこ)をつれてきたというあの葛城襲津彦である。最後の一文を「この説話は、大王宮を抱えた北九州のみならず、それ以外の地でも起こっていたを示している」と書きかえれば私(たち)にも同意できる論述となる。しかし先にも指摘したように、この説話の時代は神功5年(205年)より200年ほど後にずらさなければならない。

 例えば九州では、近畿の影響が強いといわれる福岡県うきは市の月岡(つきのおか)古墳やそれにつづく塚堂(つかんどう)古墳から朝鮮半島製とみられる馬具が出土している。しかも、月岡古墳に近い時期の集落からは、祭祀用ミニチュア土製模造鏡、鉄斧、陶質土器もしくは初期須恵器などが出土し、5世紀前半という早い時期にもかかわらず、20数基の竪穴住居の半数以上にカマドが取り付けられていた(西谷正「加耶地域と北部九州」『九州歴史資料館開館十周年記念 太宰府古文化論叢』上、吉川弘文館、一九八三年)。

 これらの事実は、倭王権につらなりその外交とも深いかかわりを持った生葉(いくは)の首長が、渡来人を保持していたことを示唆するものである。

 生葉郡には九州王朝の「宮城」や「正倉院」の痕跡がある。つまり生葉は「倭王権につらなりその外交とも深いかかわり」があった所ではなく、九州王朝の天子と深い関わりをもった土地なのだ。「5世紀前半という早い時期にもかかわらず」、上記のような出土品があるのは当然と言うべきだろう。

 また、『書紀』応神41年2月是月条は、縫工女(きぬぬひめ)を求めて呉(くれ)に派遣された倭漢(やまとのあや)氏の祖阿知使主(あちのおみ)らが、その帰路筑紫(つくし)に至った際、当地の胸形大神(むなかたのおおかみ)の求めに応じて、工女(ぬひめ)のなかの兄媛(えひめ)を奉ったという物語を伝える。

 類話は雄略14年正月条.同3月条にもあって、こちらは兄媛が大三輪神(おおみわのかみ)に奉られたことになっているが、これらはおそらく5世紀後半前後に、衣縫(きぬぬい)とその技術が宗像(むなかた)や大三輪の祭祀とかかわりはじめたことを反映したものであろう(新川登亀男「宗像と宇佐」『新版 古代の日本』3、角川書店、一九九一年)。

 王権外交とかかわり寄港地となった在地の神に、大王の使節から工女が進上されたとする宗像の伝承は、当地が王権外交とかかわり渡来工人を入手していたことを窺わせる。

 阿知使主は応神の求めに応じて呉に縫工女を探しに行く。途中高麗(高句麗)で迷うが、何とか呉に到着する。そして、呉王から兄媛(えひめ)・弟媛(おとひめ)・呉織(くれはとり)・穴織(あなはとり)という4人の工女を与えられる。306(応神37)年2月のことである。そして帰国記事が310(応神41)年2月是月条である。

阿知使主等、呉より筑紫に至る。時に胸形大神、工女等(ぬひめら)を乞はすことあり。故、兄媛(えひめ)を以て、胸形大神に奉る。是則ち、今筑紫國に在る御使君(みつかいのきみ)の祖なり。

 このあと一行は津国の武庫に至るが、応神が死去していたので、残りの工女は仁徳に献じたと結ばれている。

 応神の命令で連れ帰った工女のうちリーダーと思われる兄媛を、応神の許可を得ることなく、胸形大神に献じてしまうとは実に不可解だ。これが九州王朝からの遣使の記事であるとすれば、胸形神社は九州王朝にとって最重要な社の一つであるから何らおかしいことはない。後半部分は『日本書紀』編纂者の付加ではないだろうか。

 なおこれも先に指摘したことだが、「応神紀」の外交記事は120年ほどずれている。「定説」論者たちもそのことは当然承知しているようだ。306(応神37)年2月条の記事中、阿知使主等が高句麗で迷った部分について次のような頭注を付している。

「5世紀前半ころの高句麗は好太王・長寿王父子の治世で、日本とは敵対関係にあった」

 つまり306(応神37)年の記事を「5世紀前半ころ」の記事と認識している。しかし高句麗と戦ったのは倭国である。ここでも「日本」ではなく「倭国」と言うべきだ。

 実際、宗像がヤマトの王権との結び付きを強めながら、国際交流を進めていたことは考古学からも確認できる。九州本島と対馬の中間に浮かぶ沖ノ島では、海上交通とかかわる祭祀が宗像の勢力に支えられて行われたが、その開始時期にあたる4世紀後半の祭祀遺物は近畿の古墳出土遺物と同一内容を持つ。そして、宗像地域における前方後円墳の登場もこの頃のことであった。

 「宗像地域における前方後円墳の登場」が4世紀後半というのは問題ない。しかし沖ノ島―宗像の祭祀の開始時期が4世紀後半というのは、「考古学からも確認できる」とんでもないウソである。その真実は?
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