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《真説古代史・近畿王朝草創期編》(72)


「天智紀」(60)




近江遷都(18):滋賀漢人の出自(2)






 岩波の補注は『日本書紀』における漢人の初見として神功5年3月条を挙げて、「新羅からつれできた俘人(とりこ)らが・・・漢人らの祖である」という記事を紹介していた。『三国史記』の「倭人伝」を読むと、ほとんどの記事が倭の侵攻記事であり、なごやかに親交していたことを示す記事はわずかしかない。「「新羅からつれてきた俘人」という渡来人が多かっただろうと思われる。ただし神功5年=西暦205のころの朝鮮半島は三韓時代である。まだ新羅という国はない。神功は新羅討伐などしていないし、「神功紀」の新羅との外交関係記事はすべて九州王朝の史書や「三国史記」・「三国遺事」からの盗用記事であり、4世紀末~5世紀初めころの出来事である。約200年もずれている。新羅からつれてきた俘人が漢人の始祖としているのもあやしい。





 255(神功55)年条に「百濟の肖古王(せうこわう)薨(みう)せぬ。」という記事がある。肖古王は百済を建国した王であり、その在位期間は346年~375年である。ここではちょうど干支二巡分ずれている。『日本書紀』が史料とした百済三書(「百済記」「百済新選」「百済本記」、原本は散逸)はきちんと干支年次が書かれていたのだろう。その干支に合わせるためにこのようなズレが出てきたと思われる。




 倭国と新羅の関係が敵対的なのに対して、倭国と百済は常に親和的であった。『日本書紀』にもそのことを示す記事がたくさんある。その中の一つ、「自らの意志による」渡来人記事を見てみよう。




289(応神20)年9月条


秋九月に、倭漢直(やまとのあやのあたい)の祖(おや)阿知使主(あちのおみ)、其の子都加使主(つかのおみ)、並に己(おの)が黨類(ともがら)十七縣(こほり)を率(い)て、歸帰(まうけ)り。





 阿知使主が倭漢人(やまとのあやひと)の始祖だと言っている。この阿知使主は百済人らしい。『韓国古代史』の「三国時代の文化の東流」という章で李氏は『古事記』・『日本書紀』の朝鮮半島との外交記事を取り上げている。そこで李氏は「阿知とか和邇とかいう名前からして、彼らはともに百済人であることは間違いない」と述べている。「和邇(わに)」は『古事記』での表記であり、『日本書紀』では「王仁」と表記している。『日本書紀』での王仁の初出記事は次のようである。



284(応神15)年8月6日


百濟の王、阿直岐(あちき)遣(まだ)して、良馬二匹を貢(たてまつる)る。即ち軽の坂上の厩に養(か)はしむ。因りて阿直岐を以て掌(つかさど)り飼はしむ。故、其の馬養ひし處を號(なづ)けて厩坂と曰ふ。阿直岐、亦能く經典(ふみ)を讀めり。即ち太子菟道稚郎子(うじのわきいらつこ)の師としたまふ。是に天皇、阿直岐に問ひて曰はく、「如(も)し汝(いまし)に勝れる博士(ふみよみひと)、亦有りや」とのたまふ。對へて曰さく、「王仁(わに)という者有り。是秀れあたり」とまうす。時に上毛野君の祖、荒田別・巫別(かむなきわけ)を百済に遣して、仍りて王仁を徴(め)さしむ。其れ阿直岐は、阿直岐史(ふびと)の始祖なり。





 ここでははっきりと王仁を百済人として扱っている。『古事記』では「百濟の王」を「照古王」(=肖古王)と書いている。



 百済が高句麗に攻められて王都を漢城から熊津に遷したのが475年、また、その漢城も攻め落とされ王都を泗沘に遷したのが538年だった。倭は百済からの軍事援助の要請に応えた。このころから百済から倭への渡来は相当頻繁になったようだ。李氏はそのころの様子を

「百済は高句麗に大きな
打撃を受けて首都を漢州(広州)から熊津(公州)・泗沘(扶余)へと移してからは日本との友好はいっそう厚くなり、百済文化の東流もちょうど洪水の勢を思わしめるものがあった」。

と表現している。『日本書紀』では「欽明紀」がこの時代に当たる。「欽明紀」からは百済との外交記事の年次記録は朝鮮の史書と一致している。




 この頃の渡来人を新漢人(いまきのあやひと)と呼んでいる。新漢人は高度な学術思想工業技術を倭にもたらしている。
『「天智紀」(19)』
で述べたように、「太宰府の都城の構造は百済の首都泗沘のそれと近似している」。太宰府をめぐる山城・水城はこのころやってきた百済からの渡来人の技術のたまものであろう。




 「欽明紀」以降の外交記事は相当な量になる。直接の引用は止める。そのあらましを知るために、『韓国古代史』から引用することにしよう。(人名などの振り仮名は私が付けました。)






 まず教学面からみると、百済の武寧王(継体天皇の時)は五経博士の段楊爾(だんように)を日本に送り、その後、高安茂(こうあんも)という学者と交代させている(以後、こういった博士の派遣は頻繁に行なわれていた)。




 つぎの聖王(聖明王)は何よりも日本に仏教を始めて伝えたことで有名であるが、同王の30年、すなわち欽明天皇13年に怒唎斯致契(ぬりしちけい)をして仏像と経論若干巻をもたせて送り、仏の功徳を讃えたということはすでに述べたところである。




 聖王は仏教だけでなく、日本の要請に答えて五経博士(王柳貴 おうりゅうくい)・易博士(王道良)・暦博士(王保孫)・医博士(有陵〈こざと偏の代わりに立心偏〉陀 うりょうだ)・採薬士(潘量豊 はんりょうぶ・丁有陀 ちょううだ)・楽人(三斤 さんこん)と、僧の曇慧(どんえ)以下九人を送って、先に渡日した諸博士(馬丁安ら めちょうあん)・僧(道深 どうじむら)と交替させている。




 つぎの威徳王は経論若干巻と律師・禅師・比丘尼・呪禁師やその他、造仏工(仏像の工匠)・造寺工(寺院建築師)・鐘盤(鋳工)博士・瓦博士(造瓦工)・画工など、各専門技術者を送っている。これらの各専門家は日本の新興仏教や新しい寺院造営に多大な寄与をしている。




 その後、武王の時(推古天皇の時)には僧の観勒(かんろく)をつかわして暦・天文地理・遁甲方術の書を伝えたところ、日本の朝廷ではとくに書生(学生)34人を選び、観勒について学ばせ、翌々年(推古天皇12年)に始めて暦を頒布した。観勒は後に僧正となり、日本仏教の支柱となった。






 高句麗や新羅から伝播した文物もなかったわけではないが、圧倒的に百済からの渡来人・渡来文化が多かったことがうかがえる。よく言われるように、飛鳥・白鳳文化は百済文化によって花開くことができた。




 私は滋賀漢人の主体はこうした新漢人であったと考える。従って665年に、滅亡した百済から亡命してきた百済人400人を近江神前郡に居住させたのは新羅系渡来氏族に監視させるためなどではなかった。学術・技術のさらなる寄与を期待してのことである。

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