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《真説古代史・近畿王朝草創期編》(71)

「天智紀」(59)


近江遷都(17):滋賀漢人の出自(1)


 前回引用した岩波の補注は二大渡来人氏族の秦人・漢人は両方とも新羅系のような書き方をしていた。杉山氏が琵琶湖東岸には「とくに新羅系帰化人が数多く住んで」いたと発言していたのも、この補注と同じ理解をしているためだろう。しかし私は、滋賀郡に集住していた志賀漢人一族は百済系渡来人だと考えている。前回紹介した考古学的遺構・遺物がそのことを示している。『ヤマト王権と渡来人』所収の花田勝広論文「総論・古墳時代の畿内渡来人」は、滋賀郡から出土した遺構・遺物について詳しい報告をした上で、次のように述べている。

 このように集落・墓域が共に渡来色の強い、遺構・遺物が検出されており、渡来系氏族の集住・本拠地埋葬(帰葬)によった結果であるものとみる。

 被葬者集団ついては、水野正好氏によって律令期の志賀郡郷域の復元と史料にみる播居する氏族の基礎的研究がなされている。山尾幸久氏は、北陸・山陰地域の東海(日本海)に繋がる交易路、東海地域への湖上交通の要衝に、倭政権による港湾の整備・管理に伴う渡来人の配置とみる。

 この一帯には、古墳と一致するように飛鳥・白鳳時代の寺院が分布する。穴太廃寺(再建)・崇福寺・南滋賀廃寺では、類似する瓦積み基壇が外装に採用されている。したがって、この軒瓦と瓦積基壇から、渡来系寺院と推察されている。

 さらに、滋賀郡古市郷に南郷遺跡、瀬田川東側の栗太郡勢多郷に源内峠・木瓜原遺跡などの七世紀~八世紀代の製鉄遺跡があり、源内峠遺跡四号炉の炉系譜が百済とする見解がある。

 また、大津市内に集中分布している大壁建物について、次のように述べている。

 いずれにしても、大壁建物が畿内にも検出例があり、南郷柳原遺跡・滋賀県高月南遺跡のように、韓国の調査例より古い時期のものが知られる。現在のところ百済・公州艇止山遺跡の建物が構造上類似し、六世紀前半代の大壁建物導入地域の一つとみなすことが有力である。その上限とその系譜については、朝鮮半島の集落調査の増加より明らかになるものと推察される。

 ところで、韓国の歴史ドラマがたいへん面白く、朝鮮の歴史について多く教えられている(ただし、ドラマが描く歴史の虚実はしっかり見分けなければいけない)。いま私(たち)がテーマとしている時代と重なるドラマでは「淵蓋蘇文(ヨンゲソムン)」「薯童謠(ソドンヨ)」「善徳女王(ソンドクニョワン)」などがある。前回の大橋論文からの引用文中に、「(大壁建物に)付属すると見られるオンドル状の遺構」があることが書かれていた。私はすぐに「ソドンヨ」を思い出した。

 「ソドンヨ」の主人公は百済の王子・璋(チャン)である。チャンは後に武王となる。武王の次の王が義慈王であり、義慈王の時に百済は滅亡する。このドラマではオンドルはチャンが発明したという話になっている。このドラマは『三国遺事』の説話をもとに作られたようだ。『三国遺事』の該当部分を読んで見たがオンドルのことは書かれていなかった。考えてみると、滋賀郡の遺構のオンドルは「6世紀後半から7世紀前半」のものだから、百済の武王の生存時とほとんど重なる。オンドルの発明はそれ以前のことだろう。オンドルがチャンの発明だというのは根拠のない作り話のようだが、オンドルが百済と深い関わりがあることは確かだろう。

 いま、李丙著・金思訳『韓国古代史』を読んでいる。三国(高句麗・百済・新羅)の社会生活を論じる節に次のような一文があった。

「(高句麗の)家屋は王宮・官府・寺院のような権貴・尊厳な建物だけは瓦をふき、一般の民家は草茅で屋根をふいた。冬期には暖房装置として長抗を用いていた。今日の温突はここに起源している。」

オンドル(温突)は高句麗の暖房装置が起源だという。オンドルの発明はかなり古くまで遡るようだ。高句麗や百済の北部は相当に寒い地域であり、オンドルがかなり普及していたようだ。しかし新羅では普及しなかったといわれている。志賀漢人の遺構にオンドルがあることも、志賀漢人が百済系であることを示す根拠の一つと言えるだろう。

 またまた、横道へ。
 『韓国古代史』に百済の城東王と新羅と間にあった婚姻同盟を論じた節がある。そこに参考としてソドンヨのことが書かれている。『三国遺事』の史料批判として参考になるので紹介しよう。

 百済の東城王が新羅の女性を娶る出来事に関連して、一つ論証しておくことがある。それは『三国遺事』(巻二)に収められている有名な薯童説話についてである。

 この説話によると、薯童は百済の武王の幼名であり、彼が王子の時、新羅の真平王の王女、善花の美貌の噂を聞いて、新羅の京都に潜入し、童謡を作って広めた。その歌の内容は、王女(善花)が夜になると、薯童と密通するというものである。この歌が町中に広まったために、王女は宮中から追い出され、田舎へ逃れていく途中、たまたま路上で薯童に会い、いっしょに百済にいって彼の夫人になったという。

 著者は、この説話を全くとりとめのない話とみるよりは、ある事実を一部を中心にして構成された話だと考えている。すなわち東城王の結婚を素材にして、ロマンチックに仕立てた話とみるのである。

 薯童(薯の訓はマ、薯童はマトン)は武王ではなく、彼の五代祖である東城王であり、新羅の王女、善花も真平王の娘ではなく、照知麻立干時代の王族、比智の娘とみるべきである。武王時代と新羅の真平王時代は、両国が仇同様の関係にあったから、とうていかかる婚姻を結ぶなどの出来事は想像できない。

 伝説に薯童を末通大王といい、『日本書紀』(巻十六)には、東城王を末多王といっている。また『南斉書』(百済伝)と『三国史記』には、王の諱を牟大(『南斉書』・『梁書』・『冊府元亀』などの中国側の史書には、牟大の祖を牟都だといっているが、牟都もやはり牟大の異写であることを忘れての記述である)といっているが、実際はみな同一人物の異写とみられる。

 また伝説に、末通、すなわち薯童は、武康王だといっているが、著者の所見では、武康は武寧(東城の王子)に間違いなく、明らかに父と子とを混同したもので、それをさらに一転して武康を武王とも混同したものと思われる。

 以上の観点から著者は、薯童説話と深い関係がある有名な益山の弥勒寺および石塔は、東城王の時に始められたものと断言する(東城王の時に着工して、つぎの武寧王の時になって完成されたらしく、末通・武康の父子を混同したようである)。したがって益山郡八蜂にある双陵、すなわちいい伝えられている「武康王および妃陵」も実は東城王とその妃の陵といわねばならない。

 引用文が言う『日本書紀』(巻十六)の記事は次のようである。

449(雄略23)年4月
百済の文斤(もんこん)王、薨せぬ。天王、昆支(こんき)王の五の子の中に、第二末多(また)王の、幼年(わか)くして聡明(さと)きを以て、勅して内裏に喚(め)す。親(みづか)ら頭面(かうべ)を撫でて、誡勅(いましめるみこと)慇懃(ねむごろ)にして、使王其の國に王とならしむ。仍りて兵器(つわもの) を賜ひ、๷せて筑紫國の軍士(いくさ)五百人を遣して、國に衛(まも)りを送らしむ。是を東城王とす。

 いわゆる「質」として來倭していた百済の王子を本国に帰す記事だ。449年は確かに城東王の即位年であり、正しい年に挿入されているが、倭国の事績の盗用記事であることがバレバレだ。

 さて、漢人氏が百済系渡来人であることは文献面でも確かめられるだろうか。
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