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2006年9月4日 ホームページ『「日の丸・君が代の強制」と闘う人たちと勝手に連帯するレジスタンスの会』からの引越し完了しました。
《真説古代史・近畿王朝草創期編》(70)

「天智紀」(58)


近江遷都(16):近江における渡来人の本拠地


 田中氏は「渡来」という言葉で示される人民移動の形態を次のように分類している。

 まず最初に、古代史科が描く、「倭」「日本」への国際的な人民移動の契機の主なものを、以下に整理することとしよう。

(イ)
 自らの意志による(「帰化」「来帰」「化来」「投化」)
(ロ)
 漂流による(「漂蕩」「漂泊」「漂着」「流来」)
(ハ)
 外交使節として(「蕃客」「来朝」「朝貢」)
(ニ)
 人質として(「質」)
(ホ)
 贈与による(「貢」「与」「献」「上送」)
(へ)
 略奪による(「俘人」「捕」「虜掠」)
(ト)
 交易者として(「商人」「商客」「商賈之輩」)

 このうち、渡来人を列島への移住者・定住者の意と解すならば、実際の来航事例のうち、おそらく往来を前提とする(ハ)の外国使節、送還される(ロ)の漂着者、交易を目的とする(ト)の国際商人などがそこからただちに除かれる。しかし、古代の国際的な人民移動は、こうした区分で整理できるほど単純ではない。後述するように、七世紀以前には、技術・文化・知識を持って来航し、一定期間倭王権に仕えた後帰国する者、あるいは複数の王権と多重に結合し、その居地を移動させる者があった。

 ここでちょっと横道へ。
 田中氏の論文全体の基調となっている注目すべきことがある。それは上の引用文からも読み取れる。「倭」と「日本」をはっきりと区別しているのだ。しかも「七世紀以前には・・・複数の王権と多重に結合し」と、「多元史観」の立場を打ち出している。田中氏は単純なヤマト王権一元主義から抜け出した、あるいは抜け出そうとしている学者だと感じた。

 ただし、この論文では倭国から日本国への移行の時点は論じていない。副題の「令制前」という言葉から類推すると、大宝律令以後つまり文武天皇以後を日本国と考えているようだ。もしそうだとすると、この点でも私(たち)と立脚点を同じくする。また倭国から日本国への移行を、九州王朝→近畿王朝という権力変遷と考えているのか、あるいはヤマト王権内での組織改編と考えているのかはこの論文からははっきりと判定できない。しかし、いくつか間違った「定説」をさりげなく捨てている。私が注目した事項を一つだけ挙げておく。

 (ニ)の「質」としての渡来人を論じているところで、「質」が倭に渡来したり本国に還ったりするきっかけとして「本国の王の交替」を論じたあと、田中氏は「倭王の交替」も帰国のきっかけとなると指摘している。その一例として倭の五王の「済→興」を取り上げている。「定説」は「済=允恭」「興=安康」という無理な比定をしていて、『宋書』と『日本書紀』の記録とが合わない場合は、『宋書』の方の記事が誤っていると断じている。これに対して田中氏はためらうことなく『宋書』の記述を正しいものとみなして、「済→興」という王位継承を取り上げてる。

 例えば先の百済軍君(こにきし)の来倭は461年とみられるが、『宋書』によれば倭王済の宋への遣使の最後が460年、次の倭王興の宋への遣使の最初が462年なので、461年とはまさに倭王交替の時期にあたっている。軍君の渡来は興の即位と関係していたとみるべきであろう。

 ちなみに、「允恭→安康」は「453年→454年」である。『日本書紀』では「百済軍君の来倭」記事は「雄略紀」(雄略5年=461)に挿入されている。田中氏の推論が正しいとすると(私は正しいと思う)、百済軍君の渡来先は明らかに九州王朝ということになる。この記事も九州王朝の史料からの剽窃記事である。

 田中氏は九州王朝を認めざるを得ない一歩手前に来ていると思う。考古学的事実や中国・朝鮮の史書から目を背けることなく、誠実に研究を続けている学者が古田説に近づいていくのは必然的な成り行きである。そうした若い学者が生まれつつある例として取り上げてみた。

 さて、東アジアの住民たちは相当古い時代から互いに渡来し合い、その交流を通して技術・文化・知識面で相互的に影響し合ったであろうことは、黒曜石の流通事実を挙げるまでもなく、容易に想像できることである。また田中氏が言うように、技術・文化・知識の伝播が移住・定住した渡来者だけによって行われたわけではないことも事実だ。

 しかし目下の私(たち)のテーマでは対象の時代は、百済・新羅がそれぞれ部族国家を樹立した以後から7世紀中頃までにしぼってよいだろう。ちなみに、百済と新羅の建国はそれぞれ346年・356年とされている。

 また対象の渡来人も、移住・定住した渡来人であり、しかも私(たち)の関心は近江の渡来人である。まずは予備知識として『日本書紀』に登場する2大渡来氏族漢人(あやひと)・秦人(はたひと)のことをおさらいしておこう。岩波の補注を引用する。

 秦人は朝鮮からの帰化人で中国系と称する。姓氏録などでは秦氏の同族としているが、もとは秦氏の配下にあったもの。仁徳記に秦人を役して茨田(まむた)の堤と屯倉(みやけ)を作ったとあるのを、仁徳十一年条では新羅人を役したと書いている。秦部との相違は必ずしも明確ではないが、秦部が部民すなわち被支配階級に属する一般農民層であるのに対して、秦人は漢人と同じく、単なる部民ではなく、下流の小豪族層と考えられる。地方に広く分布し、中央の秦氏の管掌下に綿織物の貢上を職としたとふつう考えられている。

 漢人は朝鮮からの帰化人で中国系と称し、漢氏の配下にあったもの。その多くは村主(すくり)の姓(かばね)をもつ。坂上系図に引く姓氏録逸文などは、すべて東漢氏(やまとのあやうぢ)の祖の阿知使主(あちのおみ)が率いて渡来したように述べているが、実は漢氏より後につぎつぎに渡来したものであろう。神功五年三月条に、葛城襲津彦(かつらきそつひこ)が新羅からつれできた俘人(とりこ)らが桑原・佐糜・高宮・忍海の四邑の漢人らの祖であるとあるのが、漢人の語の初見である。その多くは錦綾・武具・革具その他の手工業生産を職とし、東漢氏の下にある程度の生産組織を構成していたものらしい。

 ここで『ヤマト王権と渡来人』に所収されている論文をもう一つ援用する。大橋信弥論文「大和政権と渡来氏族の形成」。

 この論文は『日本書紀』などの記事を駆使して進められているが、それらの記事を丸呑みした論述である。つまり大橋氏はヤマト王権一元主義の立場の学者である。しかし、考古学的成果をもとにした部分はとても参考になる。まず近江の渡来人について次のように述べている部分を引用する。原史料は上の岩波の補注にも出ている「坂上系図に引く姓氏録逸文」のようだ。

 (近江の漢人村主の)主要のものをあげると、大友村主・大友日佐・大友漢人・穴太村主・穴太史・穴太野中史、錦部村主・錦部日住、大友丹波史・大友桑原史、志賀史・登美史・槻本村主・三津首・上村主などで、九世紀以前の滋賀郡の古代人名の七割強を占めている。後の滋賀郡大友郷を本拠とする大友村主一族、大友郷南部の穴太を本拠とする穴太村主一族、錦部郷を本拠とする錦部村主一族、古市郷を本拠とする大友丹波史一族がなかでも有力であった。

近江の漢人

 これらの漢人村主は近江へ移住した当初は、このような多くの氏族に分かれていたのではなく、志賀に居住する漢人として、志賀漢人と呼ばれたらしい。

 この琵琶湖周辺各地に広がっている漢人の分布は8世紀末頃の資料(たぶん)によるものだ。大橋氏の言う通り、漢人たちが近江に移住した当初から琵琶湖周辺全体に分布していたわけではないだろう。「私(たち)が問題にしている6世紀から7世紀頃では滋賀漢人の根拠地と言われている滋賀郡にまとを絞ってよいだろう。その滋賀郡の考古学的遺跡・遺物はどのような情況を示しているだろうか。

 志賀漢人一族の滋賀郡への集住を示すものとしては、いくつかの考古資料が提示できる。すなわちミニチュア炊飯具の四点セットや、銀ないし銅製の釵子(かんざし)などを副葬し、天井がドーム形を呈する横穴式石室を主体とする群集墳の盛行であり、その時期は6世紀前半から7世紀中葉である。その総数は1000基にのぼるものとみられている。

 そして大津北郊では、近年古墳群に対応するように、集落の中から「大壁造り」呼ばれる土壁造りの、方形プランの特異な建物や 礎石建物が40棟ほど発見され、それに付属すると見られるオンドル状の遺構も発見されている。その時期は6世紀後半から7世紀前半である。

 また志賀漢人一族の氏寺とみられる、穴太廃寺、坂本八条廃寺、南滋賀廃寺、園域寺跡などが、そうした集落のほぼ中心部に造営されるのは、7世紀中葉から後半である。

近江の廃寺

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