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《真説古代史・近畿王朝草創期編》(69)

「天智紀」(57)


近江遷都(15):「帰化」という用語について


 前回の杉山氏の発言中に「帰化人」「帰化族」という用語が使われていた。私は私の書いた本文中ではこれらの用語は使わなかった。その理由は「帰化」という用語が一種の差別語だからだ。

 一時期、人権擁護を標榜する団体やいわゆる識者たちによる「差別語狩り」が猖獗を極めた。私は内容を度外視した形式的な「差別語狩り」にはくみしない。使っている言葉が差別語になるかどうかは、それが使われた場面の状況や文脈によって決まる。真に問題なのは言葉を使う者の差別意識なのだ。「差別語」に指定されたから使わなくなっただけでは、それはタブーのとりこになっただけで、心の中では相変わらず差別意識が渦巻いている。何の解決にもならない。

 歴史的に累積され、いまなおそこここにさまざまな差別意識が社会を覆っている。その差別意識の坩堝の中で子供の頃から否応なく身につけさせられ、心の奥深くに巣くっている差別意識を自覚することがまず必要だ。そしてそのようにして身につけてしまった差別意識を私たちが持ち続けてしまうのは、その対象についての無知さ加減による。真実を知ることこそが差別意識を克服する道である。

 外国人参政権法(永住外国人に地方参政権を付与する法)に反対して、「参政権が欲しければ帰化しろ」といった政治家がいた。日本史の教科書では扶桑社版(新しい教科書を作る会)だけが昔ながらの「帰化人」という用語を使っているという。これらの政治家や学者たちは無知なのではなく、「帰化」という言葉の意味を十分に知っていてあえて使っていると思う。これらの場合は「排外主義」・「自慢史観」というイデオロギー表出にほかならない。しかし、もともと「帰化」という言葉が、この連中が蛇蝎の如く嫌っている中国の中華思想を根幹とする言葉であることはご存じだろうか。

 ということで、改めて「帰化」の語義を取り上げることにした。

 『ヤマト王権と渡来人』所収の田中史生論文「古代史からみた渡来人 -令制前の渡来人をめぐって―」が「帰化」について次のように説明している。

 中国の中華思想に起源する「帰化」は、君王の支配の外側にありながら、その王の高い人徳に感化された周辺諸民族が、王を慕い自ら帰服を願い出る場合を指す語である。王の直接支配が及ぶ範囲を「化内」、その外側を「化外」に区分し、中華の聖王は、「化外人」の「帰化」申請を哀れみをもって受け入れ、彼らを「化内」の民に編入するとされていた。

 古田さんも『盗まれた神話』で「帰化」について論じている。そこで古田さんは、上述のような「帰化」の語義を示す出典を提示している。

 化に帰し、義を慕う。〈『論衡』〉
 四夷帰化。〈『旧唐書』職官志〉


 そして古田さんは、さらに突っ込んで「帰化」という言葉が現代において果たしている弊害にまで言及している。

 「帰化」とは「王化に帰する」の意で、「王化」とは「中国の天子の徳化」のことだ。つまり"中国の天子に帰順して治下に入り来る周辺の夷蛮″という古代的民族差別の上に立った、中国中心の大義名分の立場からのイデオロギー用語なのである。このミニチュア版が『日本書紀』内の使用法だ。


(垂仁)三年の春三月に、新羅の王の子天日槍(あめのひほこ)來歸(まうけ)り。・・・・・・・一に云はく、初め天日槍、艇に乘りて播磨國に泊りて、宍粟邑に在り。時に天皇、三輪君が祖大友主と倭直の祖長尾市とを播磨に遣して、天日槍を問はしめて曰はく、「汝誰人ぞ、且、何の國の人ぞ」とのたまふ。天日槍、對へて曰さく、「僕(やっこ)は新羅國の主の子なり。然れども日本國に聖皇(ひじりのきみ)有すと聞(うけたまは)りて、則ち己が國を以て弟知古に授けて化帰(まうけ)り」とまうす。・・・・・・

 この用語を明治の天皇制国家が援用し、新憲法にさえ旧態依然使用されている。「国籍の取得」という、本来、人間の基本的権利、本源の自由に属する事がらを、国家権力側の恩恵のように見なす。 ―まさにそのような見地にふさわしい用語なのである。だから、わたしは統一権力成立以前と以後とにかかわらず、この用語を不当な「差別用語」と見なす。それゆえ、「 」なしでは使用しない。

 九州王朝は少なくと前一世紀には、相応の範囲(銅剣・銅矛・銅戈圏)をバックにした統一権力を樹立し、それが「志賀島の金印」という形で中国の天子の"承認"をうけていた。六世紀には自立の道を歩んでいた。だから、たとえばその王朝が「帰化」という語を使用するのは、いわば当然だ。しかし、それは彼等権力者のイデオロギーの問題であって、現代のわたしの立場とは反する。

「新憲法にさえ旧態依然使用されている」は「新憲法の下でも・・・・・・」の誤りだろう。「国籍法」の第4条・第5条で用いられている。


第4条 日本国民でない者(以下「外国人」という。)は、帰化によつて、日本の国籍を取得することができる。
2 帰化をするには、法務大臣の許可を得なければならない。

第5条 法務大臣は、次の条件を備える外国人でなければ、その帰化を許可することができない。 ・・・・・・


 田中論文を載せる本の表題は『ヤマト王権と渡来人』である。つまり、現在考古学会では「帰化」に代わって「渡来」という用語を用いているようだ。ちなみに田中氏も「帰化」は「 」付きで用いている。

 「渡来」が「帰化」に代わる用語として妥当かどうかという問題もあるが、これは後に取り上げる予定だ。ともかくこれからは私も「帰化」に代えて「渡来」を用いることにする。

 さて、田中論文には「令制前の渡来人をめぐって」という副題が付けられている。ここでいう「令」とは大宝律令・養老律令のことで、「令制前」とは言い替えれば「倭国時代」ということなる。しかし、田中氏は「令制」下の「帰化」についてもかなり詳しく論じている。さしあたって私(たち)が対象にしたい時代は倭国時代の渡来人なのだが、『「令制」下の「帰化」』は私には全く未知の事柄だったので、ここに引用しておこう。

 この「帰化」は、古代日本でも唐の強い影響のもとに成立した律令法でその取り扱いが規定されている。それによると、「帰化人」渡来の際、以下のような手続きがとられることになっていた。

 「化外人」が到来し、来着地の国郡へ「帰化」を申請した場合、それを受けた国都は彼らに衣食を保証するとともに、直ちに「帰化人」到来を中央へ報告しなければならない(戸令没落外蕃条)。

 その後、彼らには定住すべき地が示され、その地で戸籍に附されるとともに(戸令没落外蕃条)、口分田も支給される。「化内」での新生活の不安定さを考慮し、10年間の課役免除も行われた(賦役令没落外蕃条)。

 ただし、八世紀の大宝令・養老令制下では、774年(宝亀5)に漂流民を「帰化」と区別し「流来」とするまで、漂流民すら「帰化」とみなしていたらしい。しかし、渡来の実際が漂流によるものであったとしても、右の手続きを経て「帰化人」として戸籍につけられると、律令法上は天皇の民として、彼らにも他の「華夏百姓」同様、勝手に日本を出る、あるいは故国に帰ることが許されない。すなわち、実際の渡来理由はどうであれ、渡来人が「帰化人」として受け入れられるということは、「化内」への定着を前提に、天皇を中心とした律令国家による一元的支配体制の中にその身が組み込まれることを意味していた。  渡来人を定着を前提とした移動者とみるならば、律令法の想定する「帰化人」は、確かにかにそのなかの一類型であるということができる。

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