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2006年9月4日 ホームページ『「日の丸・君が代の強制」と闘う人たちと勝手に連帯するレジスタンスの会』からの引越し完了しました。
《真説古代史・近畿王朝草創期編》(68)

「天智紀」(56)


近江遷都(14):杉山氏の近江遷都論


 鼎談『藤原鎌足』で杉山二郎(美術史)氏が近江遷宮について次のように発言している。私が知る限りでは、ヤマト一元主義論者の近江遷宮論の中では一番まともであると思う。これを論を進めるためのとっかかりにしてみよう。ちなみに、その発言に対して、梅原氏も田辺氏も異論を唱えていない。

 そうした(白村江の戦いの)敗戦は半島への日本の利権・発言権が完全に失われたことを意味すると思いますが、翌3年5月17日条に、百済鎮将劉仁願が朝散大夫郭務悰らを派遣して表函と献物を貢進したとある。

 唐の百済鎮将が日本にきたこと ― この記事は何でもないようですが大きな問題を孕んでいます。なぜかといいますと、白村江敗戦で水軍も引き上げてくる。百済移民もたくさんやってきた。半島に対していままでの攻勢の態度が守勢の立場に追いこまれたわけで、唐の鎮百済占領軍と新羅の水軍が逆に攻撃してくるかもしれない恐怖がでてきたのですね。そのために対馬・壱岐・筑紫に防人を派遣して防備をかためる一方、のろしを造り、中央政府への通信網を完備させたという記事が、『書紀』の天智天皇紀3年から4年につづけて記されてある。

 ところが、唐の百済占領軍の大将、いってみれば占領軍総司令官マックアーサーみたいな資格の劉仁願と朝敵大夫郭務悰らが日本にもきている。

 岩波版『日本書紀』註は、郭務悰らの派遣目的を唐の百済占領政策について日本の諒解をうるためとの一説を紹介していますが、これはまことにおかしい。白村江敗戦で守勢になった日本に、百済占領政策や占領権に関して意見を徴する必要はないはずです。

 また日本の対応策の打診、諜報謀略手段というのもおかしい。唐と新羅連合軍に対する防御策に百済亡命技術者や軍略家を使って水城を造営しているのに、唐からは朝散大夫劉高徳ら、さらにいったん帰国した劉仁願、熊津都督司馬法聰らが筑紫にきている。天智7年10月には高句麗滅亡が報ぜられる状況で、しかも8年には郭務悰らが二千余人の帰化人を日本に送っているのです。

 国交が断絶して防備怠りなかったというのでなく、軍備をほどこす最中に敵国の将軍がやってくるというのは、どうも解せません。やはり唐・新羅勢力が何らかの形式で日本の内政に関係し干渉しているとも考えられるわけです。

 対馬・壱岐・筑紫の山城・水城・神籠石などの設営をヤマト王権の事業としている点は相変わらずだ。しかし、 『「占領軍」は何をしに来たのか(1)』 で紹介した従来の「定説」を否定しているところが新しい。また「唐・新羅勢力が何らかの形式で日本の内政に関係し干渉している」という観点も従来の「定説」にはなかった。

 さて、従来の「定説」の集大成と思われる井上光貞氏の論文「大化の改新と東アジア」(岩波講座・日本歴史2」所収)は、近江遷宮の理由を次のように述べている。

「 天智が667(天智6)年、近江大津宮に遷都したのは、対外関係上、敵襲にあいやすい大和を避けて、奥地の、北陸・東海・東山三道いずれにも通じる交通上の要地をえらんだためであろう」。

 たったこれだけである。深入りを避けている感がある。杉山氏はこの「定説」も否定している。

 さらに国内間題で不思議なのは天智6年3月19日、天下百姓の不満をよそに近江に遷都していることです。その年11月に、都は飛鳥盆地から近江の志賀京に遷っているにもかかわらず、対馬金田城、讃岐屋嶋城、奈良高安城に城を築造している。

 こうした現象をかりに文字どおり解しますと、筑紫に攻撃してくるであろう唐・新羅連合軍に対する防御策のように考えられます。けれど、難波津と飛鳥盆地を結ぶ幹線路の中間の高いところにある高安は、中継地として烽火台くらいで考えるのなら、奈良盆地の都に対する出城として理解できますが、すでに都は近江に還っているので、どうもこれらの築城は、天智系支配権力の側よりも、むしろ奈良盆地を見張る立場の側の仕事とも考えられるわけであります。

 どうも天智天皇の遷都はむしろそうした戦勝国側の意図よりでた、封じ込め政策ではないかと思われるふしもあるのですね。郭務悰・劉仁願ら唐の鎮百済占領軍の主要メンバーは、飛鳥を中心とした吉野山塊にかけた地域に ― それには多武峰も入るかもしれませんが ― ちょうど戦後のGHQのように百済占領政策を推進するため、さらに日本に対してもなんらかの勢力をもって威嚇し見張っていたのではないかということが考えられてきます。


 唐の占領軍が大和まで進入してきたということはあり得ると思う。ただし、もし大和まで進入してきたとしても、「威嚇し見張」るためではなく、もっと具体的な目的を持ってのことだろう。ヤマト王権内の勢力も一枚岩であったはずがない。まだ九州王朝は存続していたとはいえ、ほとんど無傷のままの兵力を残したヤマト王権は唐にとっても侮れない勢力であったろう。つまり唐が大和まで進入してきたとすれば、それはヤマト王権内の反唐派の追い出しのためである。その場合、天智にとっては親唐派として地歩を固めるよい機会であった。

 と書いてきて、もし「老女帝毒殺」が本当のことだとしたら、斉明は反唐派だったのではないかと思いいたった。しかし、これもあれも、まったく裏付けのないことを前提にした議論だ。深入りするのはよそう。杉山氏の発言の続きを読もう。

 すでに琵琶湖東岸、北陸路から敦賀にかけ半島帰化人集落があって、とくに新羅系帰化人が数多く住んでおりますから、天智4年や8年の神埼郡や蒲生郡への百済流民の入植は、むしろ新羅系帰化族集落の監視下におかれた一形態ともみられるわけで、そのため、天智系支配勢力は大津志賀宮へ遷され、同じく監視されたとの状況も考えられてくるのですね。ほぼそのころ百済も滅亡し、やがて高句麗も滅びる。朝鮮半島三国の興亡がきわまって新羅が唐の力を借りて統一しようとする。一方では滅亡遺将が残存勢力をもって各地に蠢動し、それに援助することのないような封じこめ政策がみられる。

 ここでは杉山さんは「琵琶湖東岸、北陸路から敦賀にかけ半島帰化人集落があって、とくに新羅系帰化人が数多く住んで」いたことを前提に議論を進めている。この点について私には疑念がある。それは琵琶湖東岸の朝鮮半島からの移住者は新羅系ではなく百済系が多かったのではないだろうか、ということである。もしそうだとすれば、「神埼郡や蒲生郡への百済流民の入植」は、これもやはり「監視」のためとは言えないだろう。これは天智が遷宮先を近江にした理由とも関わることである。
 朝鮮半島からの移住者については、私はほとんど何も知らない。図書館から大橋信弥・花田勝広編『ヤマト王権と渡来人―日本考古学会2003年度滋賀大会シンポジウム2―』を借りて来た。次回からこの本を教科書にして、「渡来人」について調べることにする。

 杉山氏の発言の続きを読もう。

 天智帝の大津志賀京は、一見琵琶湖東岸一帯を押え、かてて越前敦賀から裏日本北陸を確保し、同時に美濃から東国一帯を支配するための絶好な地点を占めたかのようにみえます。が、『書紀』の記事をすなおに読むと、当時、朝鮮半島の動乱や攻防の余波としては、裏日本で水軍をしたてて新羅を討つ計略の片鱗もみえないで、筑紫から瀬戸内海を通り難波に至る表日本が意識されていて、逆に都は難波津に面した所へでも遷さなくてはならないくらいの状況がわかりましょう。まあ譲歩して奈良盆地ですね。ところが大津京はむしろつんぼ桟敷で、裏日本から新羅に襲われる危険の大きいところで、しかも北陸路の防備にはまったく触れていないのですね。

 これは壬申の乱にもつながる問題ですが、そうした勢力の存在を肯定してみますと、白村江敗戦以後の国内情勢について、『日本書紀』『続日本紀』の不可解な記事にかなり解釈がつくのではないかと思っているわけです。

 ヤマト王権には「新羅を討つ」理由は何もないし、「裏日本から新羅に襲われる危険」も皆無だったと私は思う。唐・新羅にとって牽制すべき本命はまだなお九州王朝であった。「白村江敗戦以後の国内情勢について、『日本書紀』『続日本紀』の不可解な記事」を正しく解読するためのマスターキーは、やはり「九州王朝の存在」である。それを認めない限り、真の解読はあり得ない。
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