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《真説古代史・近畿王朝草創期編》(67)

「天智紀」(55)


近江遷都(13):近江宮はどこ?


 ヤマト王権が「京」と呼べる都城を初めて構築したのは藤原京である。それ以前は「京」ではない。今回からは「近江京」ではなく、正確に「近江宮」を呼ぶことにする。表題は通例に従って「近江遷都」としているが、これも本文中では「近江遷宮」と呼ぶことにする。

 さて、近江遷宮というけれど、近江のどこに遷ったのだろうか。それらしい考古学的遺物が発見されず、30年ほと前までは近江宮の場所は特定されていなかった。そのためた「近江遷宮はなかった」という説もあったようだ。

 ただし、天智が建てたと言われてる崇福寺(大津市滋賀里町)の近くだろうという見当が付けられていた。鼎談『藤原鎌足』で考古学者の田辺昭三氏が近江宮(田辺氏は「大津宮」と呼んでいる)探しについて次のような発言をしている。『藤原鎌足』は1972に発刊されているので、1970年頃までのは以下のような状況だったことが分かる。

 大津宮址の調査は過去に二度、肥後和男さんと柴田実さんが手がけています。それと、大津宮の位置を決める一つの鍵ともみられる崇福寺址の調査もすでに実施済みです。

 今回は、国鉄湖西線の敷設工事に伴う調査で、三度目の挑戦ということになるわけですが、工事に関達した調査ですので、調査範囲も限定されますし、かならずしも大津宮址に目標をしぼった調査はできないという難点はあります。ただ、もし大津京とよぶことのできるようなはっきりしたものが存在したとすれば、今回、湖西の平野部を南北に貫ぬいて湖西線が走るわけですから、どっちへ転んでも京城のどこかには、かならず引っかかるはずだという見とおしがあるわけです。

 現在、大津宮址の有力な推定地の一つである南滋賀辺りを中心に、南北2.5キロにわたって発掘していますが、面白いことに、ほとんどの地点を掘っても6世紀末から7世紀初頭にかけての遺物が、かなり豊富にでてきます。その時期の竪穴住居址もすでに三地点で検出しました。

 こうした調査結果をみますと、大津宮推定地の周辺一帯は、大津宮の前段階に、大小の集落が点々として、相当繁栄していたことはたしかです。これは、大津宮成立の前提として、当然見のがすことのできない事実だと思うんです。

 そこで、かんじんの大津宮関係の遺構ですが、調査をはじめてしばらくは、掘れども掘れども、7世紀後半に比定できる造物は全くでてこず、かなり悲観的でしたが、ごく最近、調査地域の南北両端の地点で、大津宮の時期にピッタリの造物が、かなりまとまってでてきました。土師器・須恵器・木器・建築材の残片などですが、そのなかには、陶硯や墨書のある土師器などもあります。これらの遺物のなかには、一般庶民生活には無縁で、明らかに宮人・貴族・僧侶などの生活にかかわるものがかなりあります。

 これらの造物は、この時代に掘鑿された溝の中や、その周辺の土中からでてくるわけですが、その溝は、いずれも東西、南北の方向に走っており、大津宮造営と関連して、すでに何らかの土地区割が存在したことを示していると思います。まだ、大津宮時代の建築遺構などはでてきていませんが、とにかく大津宮の位置についても、推定地の範囲をかなりしぼって、現調査地点の至近距離に宮の所在を想定できるところまではこぎつけたと思ってます。なにぶん、深いところでは現在の水田面から3メートル近くも下から大津宮時代の時期の造物がでてくるのですから、大津宮の位置がこれまでなかなかつかめなかった理由も、一つにはそうした条件が原因していたのではないでしょうか。まあ、今後の調査で何がでてくるか、楽しみになってきました。

 上の発言の中に「大津宮推定地の周辺一帯は、大津宮の前段階に、大小の集落が点々として、相当繁栄していたことはたしかです」というくだりがあるが、これはけだし当然の結論であろう。このことは、近江京の推定地を南滋賀辺りに求めることの妥当性とともに、文献的にも確認できる。実は近江遷都は天智が初めてではなかったのだ。「景行紀」に次のような記事がある。

景行58年2月11日
近江國に幸(いでま)して、志賀に居(ま)しますこと三歳(みとせ)。是を高穴穂宮(たかあなほのみや)と謂(まう)す。

景行60年11月7日
天皇、高穴穂宮に崩(かむあが)りましぬ。時に年一百六歳。

 景行以前の大王は全て大和に宮居を置いている。大和以外に宮居を遷したのは景行が初めてである。上のように、景行は最晩年の3カ年、近江に宮を置いていた。続いて成務・仲哀もその同じ宮に居住した。その高穴穂宮は大津市穴太(あのう)に比定されている。

 天智が遷宮地を選ぶとき、何もない荒れ地を選ぶはずはない。かつて宮居が置かれた地があるならば、そこを選ぶのが当然ではないだろうか。

 さて、田辺氏は「今後の調査で何がでてくるか、楽しみになってきました」と言っていたが、その後次のような成果が上がっていることを知った。(古田さんの『古代の霧の中から 1・近江宮と韓伝』から。1984年7月6日付「朝日新聞〈大阪〉」の記事をもとにした記述。)

 はからずも、昨年7月、滋賀県穴太の地で、めざましい発掘と発見が行われた。

 大津市穴太2丁目の西大津バイパス建設予定地。大津宮跡の北東3.1キロ。国鉄湖西線唐崎駅から北西へ300メートル。いわゆる「穴太廃寺」の地である。
 東西28.6メートル、南北15.6メートル(講堂跡か)。そこから北約20メートル、西側に東西22.4メートル、南北19メートル(金堂跡か)。これに並び東側に12メートル四方(東堂跡か)。法起寺様式であるという。
 時期は、白鳳時代(7世紀ごろから8世紀初め)とされる。

 このような報道のあと、これほどの寺院跡、法隆寺級の大寺院跡が出土したにもかかわらず、その存在事実を示す文献記載のないことに不審がもたれている、という。

 ここでは「寺院跡」と解されているようだけれど、これこそ天智紀にいう「近江宮」、天智が統治し、そこで崩じた宮殿、すなわち、先述来の「旧宮」ではなかったであろうか。

 ここで古田さんが「旧宮」と呼んでいるのは、もちろん景行の高穴穂宮ではない。671(白鳳11・天智4)年の「復元」年表を補充して再掲載すると

1月6日 冠位26階を制定

9月 天智、病気になる

11月24日 近江宮で火災

12月3日 天智、近江宮で死去

12月11日 新宮で殯する。


となる。天智死去の直前に近江宮は火災を出している。被害がどのくらいだったのか記録されていないが、天智は急遽新宮建設を命じたのだろう。その新宮で殯が行われている。火災からわずか十数日後だから、このときはまだ新宮は区画を整えた程度でありとても「新宮」とは言えない。ともあれ、この火災で炎上した宮殿を古田さんは「旧宮」と呼んでいる。

 ちなみに、旧宮と新宮の地理的関係について古田さんは次のように述べている。

 地図で見れば、判然としているように、「高穴穂(穴太)」の地は、大津の港を入口として、その北東へ参道のつづいた奥に当る。これを「大津の宮」と称して、何の過不足もないのである。

近江宮

 これに対して、いわゆる「大津の宮」(新宮。大津市錦織(にしこり)の地であることが最近確認されてきた)は、大津の港の、すぐそばだ。むしろ、王者の都の地としては、“港のそば”にすぎよう。ただ、天智は、この交通至便の地に「新宮」の建設を志し、その企図達成直前に、逝ったのであろう。

 このような地形の巨視的俯瞰(ふかん)からすれば、この「旧宮」と「新宮」とは、別域ではなかった。同一都域の中の、A地とB地、そういった感じなのである。

 では、景行・天智が選んだ大津市穴太にはどのような利便性があったのだろうか。
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