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《真説古代史・近畿王朝草創期編》(66)

「天智紀」(54)


近江遷都(12):中大兄の動向


 斉明は朝倉宮に移ってから死去するまでずっとそこに居住していたようだ。では中大兄はどこにいたのだろうか。

 661年7月の記事にあるように、中大兄は長津宮(娜の大津の磐瀬行宮)移っている。その後は中大兄の移動は、記録上は斉明の「喪を奉徙(いまつ)りて、還りて磐瀬宮に至る」だけである。この行動は、斉明を埋葬するため一度朝倉宮へ行き、大和へ帰る一団を見送りがてら長津宮へ帰ったということだろう。そのとき以外は中大兄は、筑紫滞在期間中は一貫して長津宮にいたと考えられる。中大兄は、斉明に代わって、ヤマト王権の代表者として太宰府での唐・新羅対策の部族会議に参加していただろう。そのためには長津宮は太宰府のすぐ近くで、都合がいい場所だ。もちろん藤原鎌足も中大兄の懐刀として行動をともにしていた。

 斉明の長津宮から朝倉宮への移動の目的を、岩波の頭注は「敵襲を考慮したためか」と推測している。この推測は半分は正しい。

 唐に繰り返し朝貢しているヤマト王権は新羅征討には初めから厭戦気分だったに違いない。朝倉宮の怪事件や斉明の病気を理由に、部族会議では後方防衛の役割を強く求めて了承を取ったのではないか。朝倉は山城(基山 基肄城)と神籠石(杷木)の間にあり、吉野ヶ里・筑後川にも近い。朝倉は有明海方面からの敵襲に対応する重要地点だったのではないか。

 斉明改葬のための船団は娜の大津から海路を難波に向かう。往路と同様にこの船団で、ヤマト王権の将軍たちの妻子や使命のなくなった貴族たちも帰って行った。しかし、ヤマト軍は筑紫に残ったはずだ。それは唐の占領軍との共同作業(九州王朝の王墓や宮殿の破壊)や筑紫傀儡政権内での権力争いに不可欠であった。もちろん中大兄も改葬船団には同行していない。その証拠が「復元」年表で全文を掲載しておいたあのおかしな挿話である。

是に、皇太子、一所(あることろ)に泊(は)てて、天皇を哀慕(しの)ひたまいて、乃ち口號(くつうた)して曰はく、
 君が目の 戀(こほ)しきからに 泊てて居(ゐ)て かくや戀(こひ)むも 君が目を欲(ほ)り


 「一所(あることろ)に泊(は)てて」だって? 船団の途中停泊所が分からないと言っているのと同意味だ。「ある本に曰く」とか「名を闕せり」とか「詳らかにせず」とかと同じ『日本書紀』得意の語法である。また、「口號(くつうた)して」詠った歌のなんととぼけていること。これは亡くなった母親を偲ぶ歌ではなかろう。明らかに故郷の恋人との再会を切望している女性の心情を詠った歌だ。( 「詩をどうぞ:安西均作「実朝」・「頬白城記」」 で紹介したように、安西さんはこの歌を志賀島の民謡ではないかと考えている。)

 このような取って付けたようなエピソードを挿入した意図は何か。中大兄が斉明の改葬に同行したことを示唆しようとしているだ。このように考えながら、一方で私は不思議でならない。中大兄が同行したことにしたいなら、「皇太子はなきがらに付き添って飛鳥まで同行した」と、一行追加すれば済むのに、なぜこんな手の込んだことをするのだろうか、と。

 さて、筑紫傀儡政権内では、衰退した九州王朝にに取って代わるべく、水面下では部族国家間の主導権争いが行われていたことだろう。

 主導権を得るには占領軍の総帥・郭務悰の同意が必要である。その郭務悰は傀儡政権に頑強に抵抗し続けている九州王朝内の抵抗勢力に手こずっていた。(この抵抗は712年まで続く。 第1399回 2010/04/25(日) 『「占領軍」は何をしに来たのか(2)』 を参照してください。)

 しかも朝鮮半島では百済を併合した唐は、余勢を駆って新羅をも併合しようとしていたが、新羅の武烈王(金春秋)と名将金廋信は唐との決戦に備えて挙国一致体制を整えていた。そのため唐の総帥・蘇定方(そていほう)はやむなく軍を撤退している。唐はここでも収拾に手こずっている。

 このような状況下、郭務悰は九州王朝を徹底的に壊滅するという所期の強行方針から、抵抗勢力までもを取り込む懐柔策へと占領方針を転換したのではないだろうか。これを知った中大兄と鎌足は、筑紫に見切りをつけ、ほとんど無傷であったヤマト軍を率いて大和へ帰った。そしてさらに近江へと移った(あるいは筑紫から直接近江へ移動したかも知れない)。近江遷都の数ヶ月後、中大兄は倭京(太宰府)を訪ねている。そして、その翌年に即位する。倭京へはヤマト大王即位の根回しに行ったものと思われる。

 一方筑紫では、傀儡政権の首長に据えていた伊勢王とその弟王が相次いで死去する(この二人の死もなんだか尋常でなさそうだ)。そこで郭務悰は筑紫君薩夜麻を帰国させ、倭国王に復位させた。しかし、白村江で大敗した薩夜麻には昔日の権威はなくなっていただろう。筑紫の抵抗勢力はむしろ反発したのではないだろうか。この間の「復元」年表を再掲載する。


667(白鳳7・斉明13)年

2月27日 斉明・間人大后を
      小市岡上陵に合葬

3月19日 近江遷都

8月 中大兄皇子、倭京に行く。


668(白鳳8・天智元)年

1月 天智即位

☆6月 伊勢王とその弟王
      日をついで死去。

☆11月 唐占領軍第二陣来る。
     筑紫君薩夜麻を同行。


 では中大兄はなぜ宮殿を大和(飛鳥)ではなく近江に置いたのだろうか。

【付記】九州王朝滅亡の残映
 古田さんは『失われた九州王朝』で『宋史』」日本伝や『三国史記』の記事をを取り上げて、その記事の見事な解読を行っている。滅亡した九州王朝の残映が100年後、あるいは300年も後にもなお姿を現しているというのである。ヤマト一元主義の学者には思いも寄らない仰天解読だろう。
 『宋史』日本伝中、興味深い記事がある。

「天聖4年(1026、後一条天皇、万寿3年)12月、明州言う、『日本国太宰府、人を遣わして方物を貢す。而も本国の表を持たず』と、詔して之を卻(しり)ぞく。其の後も亦、未だ朝貢を通ぜず、南賈(なんこ)時に其の物貨を伝えて中国に至る者有り」。

 日本国の太宰府から、中国(北宋)へ朝貢をもってきた、というのである。明州からの報告だ(明州は今の寧波、すなわち、浙江省〔会稽道〕鄞県)。しかも、日本国王の上表文をもたず、単独で自主的に献上してきたのだ。しかし、中国の天子はこれをしりぞけた、というのである。

 11世紀前半といえば、日本では平安期中期だ。九州王朝の滅亡(700年)からすでに3世紀を越えている。しかるに、このような事実。 ― それは1世紀志賀島の金印授与以来、九州王朝の根深い、対中国関係の伝統を物語っているであろう。そして中国側から「朝貢」を拒否されてもなお、「南賈」(南方の商人)を通じて“「朝貢」の名なき朝貢”を送りつづけている、という。わたしたちは、ここに東シナ海を渡って南朝と国交をもちつづけた九州王朝の永き残映を見ているのである。

 このような視点に立てば、『三国史記』のつぎの記事も、正当な理解を得よう。

(A)
(哀荘王3年、802)冬12月、均貞に大阿飡を授け、仮の王子となす。以て倭国に質せんと欲す。均貞、之を辞す。
(B)
(哀荘王4年、803)秋7月、日本国と聘(へい)を交わし好(よしみ)を結ぶ。
(C)
(哀荘王5年、804)夏5月、日本国、使を遣わして黄金三百両を進ず。
〈『三国史記』新羅本紀第十、哀荘王〉

 これは、日本では、桓武天皇の延暦21年(802)から23年(804)に当る、9世紀のはじめだ。だから、(B)(C)の「日本国」という表記に不思議はない。当然、この前後は、(A)以外、全部「日本国」の表記だ。しかし、おどろくべきは(A)だ。平安朝においても、なお、新羅は一旦、「倭国」(九州王朝の後裔)と「契約」を結ばんと画策して、挫折しているのである。

 この段階においても、なお、九州は一種“半独立性”の残映をもって、朝鮮半島側には映じていたようである(『海東諸国記』も、「日本本国」と「九州」〔及び一岐・対馬〕を別地図に描いている)。

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