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《真説古代史・近畿王朝草創期編》(65)

「天智紀」(53)


近江遷都(11):斉明の陵墓


 前回、自分でもびっくりするような展開になった。「斉明は毒殺された」なんていう仮説が成り立つのだろうか、いまだ半信半疑でいる。何か突破口はないだろうか。斉明の死に関する史料は『日本書紀』だけだけど、ふと墓陵関係史料に何かヒントがだろうかと思い至った。10年ほども前に買って拾い読みしただけで「積ん読」していた本、森浩一編『天皇陵古墳』を思い出した。その本で斉明陵について調べてみた。二項目しかなかった。

 第二部の天皇陵古墳関係資料中の「歴史的人物の没年と没所」(波多野由美子編)では『日本書紀』の記述通りに記載されていて、新たに得るところはなかった。ところが、第1章・和田萃「日本古代・中世の陵墓」に『扶桑略記』に記載されている山稜記事(応神から元明まで)に思いがけない発見があった。和田氏は山稜記事部分だけを抜き書きしている。幸いネット検索で『扶桑略記』を見つけたので、斉明のその部分を全文転載する。(原文は漢文。読み下し文にした。)

 七月廿四日、天皇崩ず。山陵、朝倉山。【八月。葬喪の夕、朝倉山上に鬼有り。大笠を着け喪儀を臨み視る。人皆これを見る。」陵高三丈。方五町。】大和國高市郡越智大握山陵に改葬す。【十一月、これを改む。】

 朝倉山に葬られていて、後に大和に改葬されたというのだ。大笠を着けた鬼の怪異譚の記録している。日付はすべて『日本書紀』の記事と一致している。

 この『扶桑略記』の陵墓記録は信頼できるのだろうか。和田氏は「兆域」(立ち入り禁止区域、斉明の例で「方五町」と書かれ部分)の検討を通して、『扶桑略記』の原史料が作られたのは「奈良時代後半から末ごろの可能性が大きい」とし、その後の「諸陵式」は『扶桑略記』の記録を踏襲していると結論している。その史料批判部分を転載しておく。

 記載の形式に、(1)「葬于 ― 陵」、(2)「山陵、―」とする二種類があり、何か記録にもとづく記載であるらしい。(1)の形式をとるのは、応神~欽明、改葬の事例である用明・舒明・斉明、火葬に付された元明であり、(2)の形式は、敏達、崇唆、推古、孝徳、天智、天武(持統)、文武である。(2)の記載が基本で、(1)は副次的なものであろう。

 延喜諸陵墓式と『扶桑略記』の記載を比較してみよう。山陵名については、『扶桑略記』が飯豊皇女の即位を認める立場をとるので、葛木埴口(かづらきのはにくち)丘陵をあげていることを除けば、延喜諸陵墓式のそれにほとんど一致している。仁徳・履中・反正の山陵所在地についても、『扶桑略記』は延喜諸陵墓式と同様に、仁徳陵を中心として反正陵を北陵、履中陵を南陵としている。

 しかし兆域記載については大きな相違がある。『扶桑略記』では、顕宗陵の兆域を東西二町・南北三町とするのを除けば、すべて兆域を正方形とするのに対し、延喜諸陵墓式(応神~元明までの部分)では、例えば允恭陵であれば兆域を東西三町・南北二町とするように、長方形の兆域をもつ例が三分の一ほどある。さらに『扶桑略記』では山陵の高さを記していて、きわめて注目される。

高さ五丈 ― 応神・仁徳・履中・反正・天武陵
高さ四丈 ― 允恭・欽明・舒明陵
高さ三丈 ― 安康・顕宗・継体・安閑・宣化・敏達・用明・斉明・文武・元明陵
高さ二丈 ― 雄略・清寧・仁賢・武烈・推古・孝徳・天智陵

 高さ五丈の例は、どの前方後円墳にあてるかはともかくとして、古市古墳群中の応神陵、モズ古墳群中の仁徳・履中・反正陵、そして天武陵のみであり、架空の数値ではなく、かなり事実にもとづいたものとみてよい。兆域が方形で墳高を記すという点では、大化薄葬令と共通している。

 『扶桑略記』の兆域記載のもとになった記録の成立時期であるが、天智陵の所在地を山城国宇治郡山科郷とすること、また舒明陵の兆域が方九町と広く、天智系の山陵の兆域が広大になって以降のものとみれば、奈良時代後半から末ごろの可能性が大きい。山陵名が延喜諸陵墓式のそれとほぼ共通していることから、それは弘仁諸陵墓式に踏襲され、延喜諸陵墓式に至ったとも考えられる。兆域や墳高については、弘仁諸陵墓式では採用されなかったのだろう。

 なお、これもネット検索をしていて出会った情報だが、福岡県朝倉郡恵蘇宿(えそのしゅく)というところに「御陵山」と呼ばれる古墳があり、そこが斉明天皇陵とされているようだ。斉明が朝倉で本葬されたという伝承もあったようだ。(この古墳が発掘できれば真偽のほどがはっきりするのにな。)

 さて、「斉明紀」7年条の葬儀記事は「飛鳥の川原に殯(もがり)す」で終わっていて、どこに埋葬したのかは記録されていない。そこで私は、これは「称制偽作」過程で、不注意でか意図的にかは分からないが、埋葬記事を分離してしまったものと考えて、「復元」年表では「殯(もがり)」記事の後に「天智紀」6年条の「天豐財重日足姫天皇と間人皇女とを小市岡上陵に合せ葬(かく)せり」という記事を置いのだった。しかしこれは「改葬」だったのだ。『日本書紀』編纂者が筑紫朝倉での「本葬」記事を意図的にカットしたことになろう。すると、カットされた「本葬」記事は
「7月24日 斉明、朝倉宮で死去」

「8月1日 中大兄皇子、喪のため磐瀬宮に至る。」
の間に入ることになる。

 上の「復元」年表が正しいとすると、大変あわただしい葬儀であったようだ。斉明の死は、毒殺とまでは言えないとしても、変死であった可能性は大きい。そのため早く葬る必要があったのではないか。斉明の死が普通の病死だったとしても早々に葬る必要があったと思われる。なぜなら、ヤマト王権の本拠地外での出来事であり、しかも筑紫には唐の占領軍がやって来ている。葬祭儀式をのんびりと時間を掛けて行うことができる状況ではなかっただろう。

 ちなみに、「孝徳紀」大化2年3月条に薄葬令の記事がある。これは言うまでもなく九州王朝の事績の盗用である。この薄葬令には魏の文帝が出した薄葬令(『三国志』)が引用されている。文帝の薄葬令は3世紀である。倭国は7世紀よりもっと早い時期から中国での薄葬令の影響を受けていたと思われる。その薄葬令に「それ王より以上の墓は、・・・七日に訖(おはら)しめよ」と言う一文がある。この薄葬令が徹底されていたとすれば、葬儀はせいぜい長くとも7日ということだから、「復元」年表の日程に無理はない。

 「斉明紀」では斉明のなきがらを運んでいって、大和の飛鳥川原で殯をしたことになっている。なきがらを掘り出して運んだのだろうか。そうだとすると、一度埋葬してすぐに掘り出したことになり大変不自然である。私は飛鳥川原での殯、その後の改葬は形式的なものだったのではないかと思う。いまでも故人の身体の象徴として毛髪が用いられているが、「斉明紀」が言う「なきがら」とはそのような象徴的な身体の一部だったのではないだろうか。後に詳しく書く予定だが、この葬送船団には何よりも皇太子とされている中大兄が同行していないのだ。そうした斉明の遺品とともに、斉明と同行してきて朝倉にいた貴族やその妻子たちが大和に帰国した。飛鳥川原では斉明の遺品を用いて殯・改葬を行った。

 ところで、斉明が改葬されたという「小市岡上陵」はどこにあるのだろうか。岩波の頭注は次のように述べている。

『延喜式諸陵式に「越智崗上陵。〈飛鳥川原宮御字皇極天皇。在大和国高市郡〉」。陵墓要覧は所在地を奈良県高市郡高取町車木とする。』

 つまり、「小市岡上陵」については全く比定の手がかりがなく、言うべき事は何もないようだ。そこで岩波の頭注は『延喜式諸陵式』を取り上げている。和田氏によると『延喜式陵式』は『扶桑略記』を踏襲したものであるが、「高市郡越智大握間山稜」と「越智崗上陵」ではずいぶん表記が異なる。いずれにしてもその陵跡はまったく比定できていないようだ。

 岩波の頭注が次に持ち出している「陵墓要覧」は宮内庁がまとめた明治時代以後の資料である。宮内庁が比定した陵墓には信頼できないものが多々あることは、ヤマト一元主義の考古学者の間でも常識である。ここで「陵墓要覧」などを取り上げるのは学者としての見識が疑われる。高市郡高取町車木の「斉明天皇陵」何の根拠もなく比定したその陵墓を発掘しても何も出てこないだろう。『天皇陵古墳』でもその「斉明天皇陵」は全く取り上げられていない。
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