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2006年9月4日 ホームページ『「日の丸・君が代の強制」と闘う人たちと勝手に連帯するレジスタンスの会』からの引越し完了しました。
《真説古代史・近畿王朝草創期編》(63)

「天智紀」(51)


近江遷都(9):倭国水軍の出陣地


(前回の年表に少し追加・変更をしました。議論の進展の具合によって、これからも追加・変更をするかも知れません。あしからず。)

 斉明の西方遠征記事はおかしなことだらけだ。まず出発二日後に大田皇女が女子を出産していることだ。出産直前の妊婦を同行させるなんてとても無茶だ。大田皇女は中大兄皇子の娘で大海人皇子の后だという。姪を后にしていることになる。九州に居た大海人皇子への恋慕のなせる業だったのだろうか。なお、大海人皇子は舒明の子(「舒明紀」では「大海皇子」と表記)とされているが、その記事以来「天智紀」に現れるまで、大海人皇子は『日本書紀』にまったく姿を現さない。その「天智紀」では「大海」・「大海人」という名前は出てこない。「太皇弟」という称号で呼ばれる人物が登場するが、これが大海人皇子とされている。(この問題はいずれ取り上げることになるかも知れない)。ちなみに、この時生まれた王女は大伯(「天武紀」では「大来」と表記)と名付けられ、13歳で伊勢神宮の齋王にさせられている。

 次におかしいのは伊予の温泉で十日ほども停泊していることである。たぶん、将軍や兵士は別途博多に向かったのだろう。そして斉明の一行は将軍たちの妻子だったと考えるのが妥当だろう。とはいえ、斉明がヤマト軍の最高司令官である。最高司令官がいなければヤマト軍は機能しない。物見遊山のようなこの行動は、まるで博多到着を出来るだけ遅らそうとしているようにも見える。

 ところで、斉明一行が立ち寄ったのは「伊予の熟田津の石湯行宮」と記録されているが、この熟田津(にぎたつ)という地名を詠み込んでいる歌が『万葉集』に4首(そのうち1首は「柔田津」表記)ある。そのうち最も有名な歌が次の歌(巻一 8番)である。

額田王の歌
熟田津に船(ふな)乘りせむと月待てば潮もかなひぬ今は漕ぎ出でな


 この歌には長い左注が付けられている。斉明一行が石湯行宮に泊まったという『日本書紀』の記事を引用した上で、実はこの歌は「昔日より猶存れる物を御覧し、当時忽ち感愛の情を起し」て、斉明が創ったものだ、と言っている。誰も信じないようなこと(信じる人もいるかな?)をよくまあいけしゃあしゃあと書くものだ。

 ところで「熟田津」がどこの地なのか、従来は比定できていなかった。しかし、「古田史学会」では盛んに論争されていて、いくつかの説が出されている。その中に「佐賀県諸富町新北」説がある。この説は百済救援に向かう400艘余りもの倭国の大水軍が有明海から出陣したという古田さんの説にピッタリと合う。

 有明海が満ち潮の時、嘉瀬川の下流の「鮎瀬」から船が出発したことは確実です。662年白村江の戦いのとき有明海とくに熟田津(新北津)から、たくさんの船が出発した。なぜなら世界で有名な軍港は、有明海と同じくリバプール、仁川ともに干満の差が大きいところです。(加えて、平安時代平重衡が行なった日宋貿易は吉野庄から行われた。)

 つまりくだんの歌は倭国の水軍出陣時のその場の緊張感と自らの心の高鳴りと兵士たちへの激励を歌い込めた額田王による絶唱である。最後に犬養孝氏の鑑賞文(『万葉の旅』より)を紹介しておこう。

(前略)

〝船団の出発の時がきて、湊で船に乗ろうと月の出を待っていると月も出てきたし、潮のぐあいを待っていると潮もちょうどよくなった。さあ今こそは漕ぎ出そうよ″の心であろう。「月待てば潮もかなひぬ」の緊縮した表現ははずむような流動感と緊張感をもたらして八音の結句にひびく。こうした緊張感は出発を前にしてのみんなの心でもあったろう。この歌を進発祭祀の応詔歌とみる説もある。

(中略)

 犬養氏は最後に「なお,この歌につき船遊び説,禊の行事説もあり,種々問題の多い歌」という注を付けている。出陣時にはそれに応じた宗教儀礼が行われたはずだから、私(たち)の立場では「進発祭祀の応詔歌」という説がぴったりである。
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