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《真説古代史・近畿王朝草創期編》(59)

「天智紀」(47)


近江遷都(5):「斉明紀」の北方遠征(4)「蝦夷」の意味


 これまでの論考で「近江遷都北方防御説」が机上の空論であることが明らかになったと思う。そのことが初期の目的であったが、ついでなので「蝦夷」にもう少しこだわりたい。

 「阿倍臣は陸奥の蝦夷のリーダー」というのが前回のポイントだった。この結論が妥当である傍証を思い出した。 「『神武東侵』:生き返る挿入歌謡(3)」 で紹介した『東日流外三郡誌』(つがるそとさんぐんし)が伝える東北安倍氏の始祖譚である。少し詳しく再掲示する。

 東北地方(日本列島と言ってもよいかも知れない)には沿海州から阿蘇部族(粛慎)がやってきて定住した。次いで津保化族(靺鞨)がやってきている。そこへ筑紫に侵略した「筑紫の日向(ひなた)の賊」ニニギとの戦いに敗れて、東日流(津軽)に亡命してきた筑紫の安日(あび)彦・長髄(ながすね)彦兄弟の一族(もちろんイワレヒコの侵略と戦ったヤマトの長髄彦とは別人)が先住民の阿蘇部・津保化族を打ち破って東北の支配者となった。これが安倍氏の祖先である。

 さて、安倍臣は蝦夷のリーダーでありながら、粛慎征伐だけなく、蝦夷征伐(北方遠征記事の(3)・(7))も行っている。これはどうしたことだろう。

 (3)の蝦夷は

「清き白(あきらか)なる心を將(も)ちて、朝(みかど)に仕官(つかへまつ)らむ」

とすぐに帰順を表明している。(7)では

「倍臣、飽田(あぎた)・渟代(ぬしろ)、二郡の蝦夷二百四十一人、其の虜三十一人、津軽郡の蝦夷一百十二人、其の虜四人、膽振鉏(いふりさへ)の蝦夷二十人を一所に簡(えら)び集めて、大きに饗(あへ)たまひ祿(もの)賜ふ。」

とある。「虜」がいたり、「大きに饗(あへ)」られたり「祿(もの)賜」わる者もいる。つまり敵の蝦夷と味方の蝦夷がいたことになる。安倍臣の蝦夷討伐とは実は安倍臣による「蝦夷統一戦」だったのではないか。そしてその統一戦は成功裏に終わった。「斉明紀」の蝦夷征伐譚は『日本世記』に記録された安倍臣の蝦夷統一戦成功譚の盗用だった。

 なお、この記事では「蝦夷国を討つ」という文章がいきなり「大きに饗(あへ)たまひ祿(もの)賜ふ」という文章につながっていて非常に不自然である。これについて古田さんが論じているので、それを紹介しよう。

 討伐といっておきながら、いきなり御馳走する、とは明らかにおかしい。私はここの第一行目(~蝦夷の国を討つ)と第二行目(阿部臣、飽田)の間に大きなカット、カッティングが行われていると考えます。この間に討伐譚がいろいろ書いてあったのだが、大和朝廷の記事でなくて具合が悪いのでバッサリ切り落としてしまったのだと考えます。普通に考えようとすると討伐に行って、ごちそうするのが説明がつかず、学者たちはこまっているのですが。

 この東北王朝を何故「えみしのくに」と呼ぶのだろうか。この問に対する答は 「『神武東侵』:生き返る挿入歌謡(3)」 で取り上げた「神武紀」の挿入歌謡の中にあった。その歌謡は次のようである。

夷(えみし)を 一人(ひたり) 百(もも)な人 人は言へども 抵抗(たむかひ)もせず

 「生き返る挿入歌謡」は、「神武紀」の一連の歌謡はイワレヒコのヤマト侵略時の歌ではなく、ニニギの筑紫侵略時の歌であるという古田さんによる論証の紹介であった。するとここの「えみし」とは、あの「筑紫の安日彦・長髄彦兄弟の一族」と考えてよいであろう。その一族は筑紫では「えみし」と呼ばれていた。もちろんその一族の名に「夷」という卑語を用いるはずはない。論より証拠、「えみし」は『日本書紀』の原文では「愛瀰詩」と表記されている。(ここからは『真実の東北王朝・第9章 歴史の踏み絵―「東北王朝」』が教科書です。)

「愛瀰詩」という、まことに麗わしい文字が用いられている。これは、決して“軽蔑語”ではないのだ。それどころか、「佳字」だ、といっていい(「瀰」は“水の盛なさま”)。彼等は“尊敬”されているのだ。

 安倍氏は東北で打ち立てた国をも、自ら「えみし」と名付けた。では「蝦夷」という表記はだれが作り出したのだろうか。「定説」はヤマト朝廷がその表記を作ったとしているが、中国(唐)と考えるのが自然だろう。以下はその論証である。

 「斉明紀」北方遠征関連記事の(8)は「唐への朝貢記事」だった。

 659(斉明5)年7月3日
小錦下坂合部連石布・大仙下津守連吉祥を遣して、唐國に使(つかい)せしむ。仍りて道奥の蝦夷男女二人を以て、唐の天子に示(み)せたてまつる。

 ヤマト王権の遣唐使が見せ物として蝦夷人を連れて行ったというが、これは疑わしい。『冊府元亀』の「外臣部、朝貢三」に次の記事がある。

659(顕慶4)年10月(唐朝第3代皇帝・高宗の時代)
蝦夷國、倭國の使に随いて入朝す。

 倭国とはとうぜん九州王朝の倭国だ。倭国の使者に従って入唐したが、見せ物として連れて行かれたのではない。一国の使者として入朝しているのだ。

 さて、中国の史書が「蝦夷」という漢字表記をしている。これについては古田さんの論考を読んで見よう。

 これは、当然ながら“中国中心の目”から見た、「外臣」(中国は、周辺の国々の王者を「外臣」と称した)の記事。その「外臣」からの「朝貢」の記事である。その中に、この「蝦夷国」の表記が現われている。

 これと、並出している「倭国」も、当然ながら、中国側から見た場合、「外臣」である(それを“うけいれなかった”から、唐と倭国〈九州王朝〉との間に戦争〈白村江の戦〉が生じたのだ)。

 その「倭国」は、中国にとって「東夷」であった。その「東夷の、さらに、はるかなる彼方の夷」、それをしめすのが、「蝦夷」という字面の意義なのである(「叚」は“はるか”の意。「虫へん」は、“夷蛮用の加付”)。

 もしこれを、「近畿天皇家中心に製作された夷蛮用字」であった、としよう。そんなものを、中国が“採用”して記載するであろうか。考えられない。なぜなら、それは「近畿天皇家」をもって、“諸夷蛮の中心”たる「天子」として承認する。 ― そのことを意味するからである。文字使用に敏感な、中国がそのことに“うっかり”気付かなかった。 ― そんな事態を、わたしには考えることが不可能なのである。

 この点、この「蝦夷国」をもって、「九州王朝中心の造字」と見なした場合も、同じ矛盾に逢着する他ない。わたしには、そのように思われる。

 『日本書紀』も、『古事記』も、八世紀初頭の成立。右の「顕慶四年」より、半世紀もあとだ。もちろん、「冊府元亀」は、後の成立であるけれど、その収録原史料が、同時点(唐の顕慶年間)の「朝貢文書」によっていること、およそ、疑いがないところである。この点からしても、やはり、「文字の原記載者は、中国側」、この帰結は動かしがたい。

 従来の論者(近畿天皇家中心の称呼と見なしてきた学者)が、なお自家の見地を「保持」しようとするなら、右のわたしの論証に対して、正面から反証してからにしてほしい。

 では唐は何故「蝦」という字を選んだのだろうか。
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