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2006年9月4日 ホームページ『「日の丸・君が代の強制」と闘う人たちと勝手に連帯するレジスタンスの会』からの引越し完了しました。
《真説古代史・近畿王朝草創期編》(58)

「天智紀」(46)


近江遷都(4):「斉明紀」の北方遠征(3)「蝦夷」


 討伐記事(3)・(9)に「渡嶋の蝦夷」((9)では「渡島の蝦夷」)が登場する。この「渡島」とはどこか。これについて(3)の岩波頭注は次のように述べている。

「渡島の解釈に関連して、上文の齶田浦の一部とみる説と、青森県の深浦・鯵ヶ沢(あぢがさは)・十三(じょうさん)(旧名エルマ、現在の市浦村)などの港津に比定する諸説とが分れる。」

 この場合も要するに決定打がない。北方遠征記事について、どうやら学者さんたちは論証抜きの単なる思いつき程度の諸説を垂れ流しているように思えてくる。私は(3)や(9)のシチュエーションで渡島と言えば北海道がすぐに思いつく。古田さんもそのように捉えている。

 これは、当然「北海道の蝦夷」だ。今は、「渡島(おしま)」というと、北海道の南端部、函館を南端とする半島部を指す地名だ。しかし、本来は、北海道全島を指した地名であったであろう。なぜなら、一言にして明晰、「半島は『島』ではない」からだ。

 と、考えてくると、この「渡嶋の蝦夷」とは、ズバリ言って、“古代アイヌ族”であろう。少なくとも、その概念と深い脈絡をもつ人たちであること、わたしには疑うことができない。

阿倍臣、陸奥(みちのく)の蝦夷を以て、己が船に乗せて、大河(おおかは)の側(ほとり)に到る。是に、渡島の蝦夷一千余、海の畔に屯聚(いは)みて、河に向ひて營(いほり)す。

 阿倍臣は200艘の「船師」に「陸奥の蝦夷」を乗せて、その水軍を指揮していた。つまりこの「阿倍臣」とは、「陸奥の蝦夷のリーダー」だ。安倍水軍到着した黒竜江の河口にはアイヌ族が「一千余」「屯聚」していた。

 アイヌ族が「一千余」も「屯聚」していたことを、古田さんは「何の不思議もない」と言う。

 なぜなら、北海道と黒竜江の中・下流域とが、二万年前、まさに旧石器の時代から、延々たる一大交流を行ってきたこと、すでに、黒曜石の十勝石の分布が証明した。ならば、黒竜江の河口を「拠点」とせずして、いかにして交流できるのであろうか。当然至極の道理ではあるまいか。

 このように考えてくると、この史料の記載するところ、“架構”でなく、真実の香りがする。わたしには、そのように感ぜられるのである。

(「黒曜石」についてもすでに 『「弥生の絹」・「國引き神話」』 で取り上げている。参照してください。)

 では陸奥蝦夷の水軍のリーダー「安倍臣」はヤマト王権から派遣された将軍なのだろうか。〈名を闕せ〉る人物はヤマト王権の内の人物ではないことをすでに私(たち)は知っているが、古田さんの論考によってだめ押しをしておこう。

 『日本書紀』を“信ずる”人は、この「船師二百艘」を「大和朝廷の軍勢」だと思っているであろう。そう思った上で、「これは信憑できる記事だ」「いや、信憑できない」といった議論をしてきたのである。

 では、聞こう。もし、これが、本当に「大和朝廷派遣の一大船団」だったとしたなら、なぜその全軍統率の中心リーダー(「阿倍臣」)の名前すら分からないのだろう。「名を闕(もら)せり」と注記せねばならないのであろう。

 しかも、時は、七世紀中葉だ。八世紀初頭に成立した『日本書紀』にとって、わずかに半世紀前の「事件」だ(斉明6年は、660。書紀成立(720)の60年前)。

 もちろん、それでも、はしばしの部将なら、まだしも。中心の統率者の名前が分からない、とは。“阿倍臣に当る人”とだけ分かって、実名が分からないとは。いずれも“信じられない”話だ。

 回答は一つ。書紀の編者たちは、「他の文献」から、この資料を「引用」し、「転載」しただけで、その実体を知らないのである。そして肝心なこと、それは、その資料が「大和朝廷内のものではない」 ― この一点だ。

 でなければ、いくら「引用」や「転載」したとしても、当時の関係者やその子供たち(孫まではいかない)に、その従軍の実際を聞けば、その中心統率者の「名前」ぐらい、簡単に判明するであろう。だのに、それが「分からない」ということは、すなわち、大和朝廷内に「その関係者は、いなかった」 ― この帰結しかないのである。

 この点、「史実かどうか分からない。おそらく造作だから」などといってみても、「逃げ道」にはならないであろう。なぜなら、もし、そんな作り物、つまり「造作」なら、「名を闕せり」などと書かず、麗々しく誰々と、実在の誰かの人名なりを架空の作り物の人名なりを書けば、すむ。

 そうでないのはやはり、
「その事件はあった。しかし、それは近畿天皇家内の事件ではなかった」
という帰結、それしか選択の道はないのである。

 先に、660(斉明6)年7月16日条の分注〈高麗の沙門道顕の日本世記に曰く…〉の「日本世記」が北方遠征記事の出典ではないかと指摘した。477(雄略21)年3月条分注には〈…日本旧記云はく、…〉と「日本旧記」という史書が出てくる。この二書はいずれも「日本」に関する本でありながら、どの天皇のとき何年に書かれたか全く分からない。「日本旧記」の場合は著者も不明である。しかし学者たちの間では、書名に「日本」が使われているからヤマト王権の史書だろうと、暗黙のうちに合意しているようでまともに論じられていないようだ。

 しかし、「日本」という国名を初めて使ったのはヤマト王権ではなかった。このことについては 『「日本」という表記の源流(3)』 で取り上げた。8八世紀以降に近畿王朝は自らを「日本」と称したが、その国名は近畿王朝の独創たものではなく、九州王朝から「襲名」した国号だったのだ。「日本」を最初に称したのは、九州王朝だったのである。

 だいたい古代の「史書」は、『日本書紀』がそうであるように、必ず当時の権力者の意図をくみながら、その命によって作られるものである。それなのに『日本書紀』がその書名及び記事を出しながら、それらの歴史的成立の経緯を書かないというのは何故なのだろう。この場合も答はただ一つ、
「これらの史書は、ヤマト王権内で作られたものではない」
 「日本旧記」・「日本世記」はともに九州王朝の歴史を書き留めた史書である。

 話を戻そう。「阿倍臣」は「陸奥の蝦夷のリーダー」として黒竜江まで遠征していた。その黒竜江の河口には「一千余」ものアイヌ族が「屯聚」していた。「斉明紀」北方遠征記事のこのような解読を、次のようなおどろくべき傍証ともども、従来の説を唱えている学者たちは一笑に付すのだろうか。

 ここで古田さんは『隋書』俀国伝の「瞠目すべき記事を」想起して愕然とした、と自らの発見に驚いている。ここで『隋書』俀国伝を想起する古田さんの慧眼に私も愕然としている。その「瞠目すべき記事」とは俀国の位置や国境などを解説している冒頭の一文の中の一節である。

その国境は東西五月行、南北は三月行にして、各々海に至る。

 わたしは、この記事を次のように解した。

 「この『東西五月行』が『九州』だけにとどまるものでなく、四国から九州へとつながる日本列島の全体を指していることはいうまでもない」

「問題はつぎの『南北三月行』だ。ズバリ答えよう。これは、つぎの南北に縦貫する線をいっているのだ。

対馬―壱岐―九州―種子・屋久―奄美諸島(沖縄諸島)」

 『東西』の場合の『東端』が青森県までか、北海道までか。それともさらにその北や東北につらなる島々をもふくむか、それは明らかではない(一方、関東地方まで、ということもありうるかもしれぬ)」(『失われた九州王朝』第三章「東西五月行南北三月行」)

 要するに、この一見“途方もない”表現に対して、多利思北孤(たりしほこ 筑紫の王者)が、


 日本列島をふくむ、長大な、島々のつらなりとその海域をもって、「日出ずる処の天子」(自己)に、大義名分上、所属すべき領域とし、

 中国を中心とする、大陸部をもって、「日没する処の天子」(隋の煬帝)に、大義名分上、所属するところ、とする、「二人の天子による、二つの世界の分割統治」の区画分け支配の提案だったのではあるまいか。

 そして、その「二つの世界」の接点を探る軍事行動、それが、先の「阿倍臣」一大船団の「粛慎攻撃」、黒竜江河口への接触となったのではないか、と思われる。

 これに対する、中国の天子(唐)側の回答、それが「白江の戦(白村江の戦)」であった。

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