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《真説古代史・近畿王朝草創期編》(57)

「天智紀」(45)


近江遷都(3):「斉明紀」の北方遠征(2)「粛慎」


 遠征軍が討伐の相手にしているのは蝦夷と粛慎(定説は「みしはせ」と訓じているが、普通に「しゅくしん」と読むことにする)である。この粛慎を定説はどのように扱っているだろうか。

 『日本書紀』での粛慎の初出は「欽明紀」544(欽明5)年12月条である。

十二月に、越國言さく、「佐渡嶋の北の御名部(みなべ)の碕岸(さき)に肅愼人有りて、一船舶(ひとふな)に乗りて淹留(とどま)る。…

 粛慎人が佐渡にやってきたと報告している(このあと粛慎人の風俗が書かれているが略した)。この粛慎について岩波頭注は次のように書いている。

「蝦夷の一部、沿海州のツングース族などの説があり、また粛慎の文字は中国古典から借りたものに過ぎないとの説がある。またここの記事に粛慎(ミシハセ)の語を用いたのは、のちの斉明朝における阿倍比羅夫の北方遠征の知識によるとする説もある。」

 いろいろの説を並べているだけだ。私にはどうして素直に「沿海州のツングース族」と断定できないのか不思議である。討伐記事(5)では次のように頭注している。

「上文四月条(討伐記事(3)のこと)に「伐蝦夷」、ここに「討粛慎」とあるので、この粛慎は蝦夷と同じとする説もあるが、羆は本州にはいない。」

 ならばますます「沿海州のツングース族」としか考えられないのではないか。討伐記事(9)で検討してみよう。(古田武彦著『真実の東北王朝・第3章 日本中央碑の思想』を教科書にします。)

 粛慎は中国の史書に記録されている国名である。博覧強記の人・古田さんは次のような例を拾い出している。

(1)
 成王既に東夷を伐ち、粛慎来賀す。(『尚書』序)

(2)
 粛慎・燕毫、吾が北土なり。〈注〉粛慎は北夷。玄菟の北、三千余里に在り。(『左氏伝』昭王、九)

(3)
 是に於て粛慎氏、楛矢に貢す。(『国語』魯語下)

(4)
 粛慎の国、白民の北に在り。(『山海経』海外西経)

(5)
 粛慎は、今の挹婁なり。(『漢書』東夷伝)

(6)
 (挹婁)古の粛慎氏の国なり。(『三国志』魏志挹婁伝)

(7)
 粛慎氏、一に挹婁と名づく。不咸山の北に在り。夫余を去る、六十日行なる可し。東、大海に浜し、西、冠漫汗国に接し、北、弱水に極まる。其の土界、広袤数千里。(『晋書』粛慎氏)

(8)
 靺鞨、蓋し粛慎の地。後魏、乏を勿吉と謂う。京師の東北、六千余里に在り。東、海に至り、西、突厥に接し、南、高麗に界し、北、室韋に鄰す(『旧唐書』靺鞨伝)。

 周の時代以来、粛慎は連綿と中国史書に登場しているのだ。その位置を地図で示しておこう。( 『「邪馬台国」論争は終わっている。(13)』 で用いた地図です。)

東夷伝地図 ">
(「東夷伝」地図。筑摩世界古典文学全集『三国志Ⅱ』より転載)

 史料(7)の『晋書』は唐に書かれた史書だ。「斉明紀」の北方遠征記事に粛慎が現れるのに何の不思議もない。

「阿倍臣、陸奥の蝦夷を以て、己が船に乗せて、大河の側に到る。

 この「大河」はどこのことだろう。広大な沿海州の日本海沿岸には「大河」は一つしかない。ずばり、黒竜江(アムール川)以外ではあり得ない。古田さんは言う。

 それだけではない。この「大河」は、普通名詞ではなく、固有名詞である可能性すらあろう。なぜなら、沿海州側のみならず、朝鮮半島(東岸)側、日本列島(北岸)側をふくめて、要するに、日本海圏全域を通じて、ピカ一の特大河川、それはたった一つ。この黒竜江以外にない。

 地図を見れば、まさに「特大河川」であることは一目瞭然である。

古代の東アジア
(『真実の東北王朝』より転載。クリックすると大きくなります。)

 わたしたち日本人の目には、“大きな川”に見える江の川(中国地方)や信濃川(中部地方)なども、この黒竜江に比べれば、まさに“ちっぽけな川”にすぎない。要するに、黄河や揚子江のある中国大陸において、ようやく比肩の“相手”をもつ。全日本海圏では、比肩の“相手”がいないのである。

 わたしは、昭和62年8月、この黒竜江を舟で巡行した。ハバロフスクだ。対岸(中国側)の見えぬ、その川幅の広大さ、そして何よりその水量の豊富さに圧倒された。その点では、黄河や揚子江以上とさえ見えた。これが、日本海圏、その北端部に流れこむ川なのである。日本海を論ずる場合、ここに流れこむ、この一大長流を“抜き”にして語るのは、重大な“片手落ち”、否、“両手落ち”ともいうべき一大欠落なのではあるまいか。

 このように考えてみると、一方で、日本海対岸の重要な一大関門、ウラジオストックについて、「北門(きたど)」と呼んできた古代日本人が、他方で、この北端の一大長流を「大河(おおかわ)」と呼んでいたとしても、何の不思議もない。わたしはそう思った。

(「北門」については 『「弥生の絹」・「國引き神話」』 を参照してください。)
 そして2年後(昭和63年)、(中略)秋田孝季の記した地図(明治期再写本)を見たときの驚き。それは、日本列島を中心に、北はアラスカから、南は東南アジアの方まで、描かれた大略図であったけれど、その北方、黒竜江のところには、何と「大河」と書かれているではないか。

秋田孝季の記した地図

わたしは、ことの意外に、あるいは、ことの当然に、空恐ろしくなってしまったのである。

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