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《真説古代史・近畿王朝草創期編》(55)

「天智紀」(43)


近江遷都(1)


 どうして天智は近江に遷都したのか。これからの議論での教材となるので、最近出会ったこの問題に対する代表的な定説を挙げておく。

 天智が667(天智6)年、近江大津宮に遷都したのは、対外関係上、敵襲にあいやすい大和を避けて、奥地の、北陸・東海・東山三道いずれにも通じる交通上の要地をえらんだためであろう。
(井上貞光著「大化改新と東アジア」(岩波講座『日本歴史2』所収)

 これに対する異論があり、次のように論じている。

 さらに国内間題で不思議なのは天智6年3月19日、天下百姓の不満をよそに近江に遷都していることです。その年11月に、都は飛鳥盆地から近江の志賀京に遷っているにもかかわらず、対馬金田城、讃岐屋嶋城、奈良高安城に城を築造している。こうした現象をかりに文字どおり解しますと、筑紫に攻撃してくるであろう唐・新羅連合軍に対する防御策のように考えられます。けれど、難波津と飛鳥盆地を結ぶ幹線路の中間の高いところにある高安は、中継地として烽火台くらいで考えるのなら、奈良盆地の都に対する出城として理解できますが、すでに都は近江に還っているので、どうもこれらの築城は、天智系支配権力の側よりも、むしろ奈良盆地を見張る立場の側の仕事とも考えられるわけであります。どうも天智天皇の遷都はむしろそうした戦勝国側の意図よりでた、封じ込め政策ではないかと思われるふしもあるのですね。
(鼎談『藤原鎌足』での杉山氏の発言)

 上のような定説については既に 「壬申の乱(1):近江遷都」で批判している。今回はその続編と言うことになる。

 さて最近もう一つ、同じくヤマト王権一元主義に立ちながら、上のような定説を真っ向から否定する論者に初めて出会った。近江遷都は「東北・北海道地方の沿岸住民に対する支配を強化する」ためであったと論じている。

 天智が正式に王位に就いたのは668年正月のことである。その前年3月に天智は「倭京(やまとのみやこ)」から近江大津宮(おうみおおつのみや)に遷っていたが、そこで初めて即位の儀礼を挙行したのである。

 天智が正式に王位に就いたのは668年正月のことである。その前年3月に天智は「倭京(やまとのみやこ)」から近江大津宮(おうみおおっのみや)に遷っていたが、そこで初めて即位の儀礼を挙行したのである。

 天智が称制を始めたのが661年7月であったから、正式に大王となった668年正月まで、称制期間はおよそ6年半におよんだことになる。天智が王権は確実に継承しておきながら、王位への就任をこれほどまでに延引した理由は一体どこにあったのであろうか。彼がすでに実質的な大王でありながら、王位就任儀礼を先延ばしにした理由は、従来いわれているように、百済救援戦争の指導と白村江の「戦後」処理に忙殺され、その余裕がなかったという説明にはしたがうことができない。

 すでに王権を継承し、それを確実に掌握していた天智が、6年余にわたって王位を受ける儀式を挙行しなかったのは、ひとえに形式的な問題があったためであろう。その形式上の問題とは、彼が前大王である斉明の正式な後継者として承認されるか否かということだったのではあるまいか。前大王と彼(彼女)が起こした事業が偉大であればあるほど、それを引き継ぐ新大王には多くの試練や条件が課せられたに違いない。

 従来、斉明は「中継ぎ」の女帝と見なされ、実質的な権力はなく権威も乏しかったと考えられてきた。だから、その後任となる天智は、いつ何時でも、その意思ひとつで容易に即位することができたかのように誤解されてきた。

 斉明がこの前後に例のない巨大な事業を二つも起こしていたことを看過してはならない。斉明による二大事業とは、ひとつは阿倍比羅夫(あへのひらふ)を将軍に起用した北方遠征である。これは、東北・北海道地方の沿岸部の住民を大王の支配下に取り込もうとするねらいがあり、一定の成功を収めた。今ひとつは、結果的に失敗に終わった百済救援戦争である。これがもしも成功していたならば、再興した百済がそっくり大王の支配下に入るはずであった。

 北方遠征・百済救援のいずれも、その目的とするところは倭国を東アジアに君臨する大国とすることにあった。斉明が先に完成させた「倭京」も、そのような大国の君主が住むにふさわしい都市空間として創造・構築された。「倭京」を完成させた斉明が次に取り組んだのが、その大国の版図拡張という軍事的事業だったわけである。

 したがって、斉明の後継たる者は、この二つの事業とその成果を確実に引き継ぐ必要があったわけで、それこそが斉明の後継者の証しと見なされた。天智が即位を前に近江大津宮に遷ったのも、琵琶湖(びわこ)岸にあって水陸交通の要衝(ようしよう)である大津が、北方遠征によって服属させた東北・北海道地方の沿岸住民に対する支配を強化するのに至便だったからと考えられる。いわゆる近江遷都は、天智がその正式な即位に向けて是非ともふまねばならない階梯(かいてい)だったのである。また、この大津宮で正式に即位した天智は、671年正月、百済から亡命して来た貴族たちを大量に登用している。この人事は、百済救援の失敗によって実現しなかった百済王を始めとした百済貴族の大王への服属のさまを、大津宮において演出するという政治的意図があったものと見られる。
(東山美都男著『古代の皇位継承』より)

 遠山氏は「天皇」称号で呼んでよいのは天武からという自説を持っていて、それ以前は「大王」と呼んでいる。全てのヤマトの大王を「天皇」呼称で呼んでいる学者たちに比して一つの見識ではある。しかしこの見識はあくまでも呼称だけに限られていて、遠山氏は日本の第一権力者はずーっとヤマト王権であったという立場に立っている。しかも如何せん、上の論説でも分かる通り、『日本書紀』の記述をそのままそっくり信じている。従ってこの遠山説の根拠になっている斉明の「北方遠征」を検討すれば、おのずと遠山説が空論であることが判明しよう。
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