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2006年9月4日 ホームページ『「日の丸・君が代の強制」と闘う人たちと勝手に連帯するレジスタンスの会』からの引越し完了しました。
詩をどうぞ
安西均作「実朝」・「頬白城記」

 図書館から『藤原不比等』という表題の本を三冊借りて来た。そのうちの一冊はヤマト王権一元主義からは自由な立場で書かれている。しかも古田史学とも独立独歩の論を構築している。著者・いき一郎氏は未知の人だったので念のためネット検索をしてみた。ご本人のお書きになった文章に出会った。なんとHP「新古代学の扉」の中の一文だった。それによると、いき氏は東京の「古田武彦と古代史を研究する会」の幹事を務めたことがあるという。いき氏は東京出身の方だが、その履歴は岡と深い関係がある。九州における古代史では九州に土地勘を持つ人の論考はとても参考になる。三冊の中からいき氏の本を選んで読んでいる。

 そのいき氏の本に思いがけず詩人・安西均(あんざい ひとし、1919年3月15日 - 1994年2月8日)さんが登場してきたのだ。安西さんと言えば、すぐに思い出すのは名詩「実朝」。その詩は実朝の次の二つの歌を下敷きにしている。安西さんはその二歌から全てを見通していた実朝の孤独な心を読取り、それに深い共感の思いを寄せている。

箱根路をわが越えてくれば伊豆の海や沖の小島に波の寄る見ゆ
大海の磯もとどろによする波われてくだけて裂けて散るかも


実朝

その目は煙らない
その目は寂しい沖にとどく
遥かなる実存の小島へ
その目は ずい! と接近する
それから島のまわりで
波が音もなくよろめいているのを
その目はズームレンズのように見る
その目は鹹い永劫が
しなやかにうねり
割れ
砕け
裂け
散ってしまうところまで細かく見る
その目はいつも涙に磨かれている
その目はなんでも見えすぎるために憂愁の光がともる
だから その目は雪の階段にひそむ暗殺者の
後ろ手に隠した白刃まで見ていなければならなかった。


 さて、『藤原不比等』に安西さんは次のように登場する。

 詩人安西均氏は、661年の西征、白村江戦の前夜に万葉歌がつくられていないのはおかしいと鋭い指摘を行なった。なるほど、日本書紀は、中大兄が母を悼む歌なるものを載せている。

君が目の 恋しきからに 泊てて居て かくや恋ひむも 君が目を欲り
(岩波書店『日本古典文学大系』日本書紀 下)

 安西氏はこの歌を志賀島(現、福岡市東区)の民謡ではないかと考えた(『古代歌謡の現場』76年)。そのほか、安西氏は661年のチクシにおける異常な事態を、長詩「老女帝毒殺顛末」に記している(『安西均詩集』五月書房版)。

 安西さんは福岡出身の方で、詩人の立場から古代の九州にアプローチしていたのだ。安西さんの詩を若い頃結構よく読んでいたのに、その頃は古代史に関心がなかったので、そのことを全く見落としていた。久しぶりに手元の『安西均詩集』(思潮社版現代詩文庫)をひもといた。残念ながら「老女帝毒殺顛末」は収録されていなかった。代わりに、筑紫を語った長い散文詩「頬白城記」を発見した。その詩を紹介しようと思う。

 安西さんがこの詩を書いた頃、古田さんの多元史観はたぶんまだ発表されていなかった。安西さんが九州王朝の存在を知っていたら、この詩はどのように変わっていただろうか。そんなことを思いながら読んで見た。

頬白城記



 けさ、ホホジロの啼き声を聞いたと思ったら、郷里の父から久しぶりに手紙がとどいた。「一筆啓上仕候」。母の法事が近づいたという。クララの畠を売ったという。
 クララとは、部落のなかの小字名(こあざな)である。
 私の生まれた部落は、チクシとよぶ。先年、町村合併がおこなわれて「福岡県筑紫郡筑紫野町大字筑紫」と書くようになったが、それまでは「筑紫郡筑紫村大字筑紫」であった。昔の「筑前国(ちくぜんのくに)御笠郡(みかさのこおり)筑紫郷(のさと)」である。
 「筑紫」という地名は、つとに古代から、筑前・筑後両国の国名としてよばれ、さらには西国、すなわち九州一円の総称でもあった。ならば、私が生まれた「筑紫」部落は、その本地(ほんじ 発祥地)であろうか?

 私はここで「筑紫」という地名の語源について詳述すべきかとも考えるが、いまは省略せざるをえない。
 おおかたの理由は「筑紫」の地名起源が、茫として定かでないためである。この地名の文献上の初見は、西暦六三四年に成ったシナの史籍『隋書』倭国伝、わが古文書(こもんじょ)では正倉院文書に記録された七〇一年の戸籍簿に、遡ることができる。しかしながら、これらもすでに古代国名が確立したのちの記録にすぎぬとあっては、語源を探ぬるよすがとはならぬ。ツクシとは、いかなる意味をもって発生したものか? 古来、いくつかの伝承と、あまた学究の考証・仮説・推測がくりかえされたにもかかわらず、いずれも蒼古たる歴史の沼に投ぜられる礫にひとしく、その響はむなしい。
 かくて、私のうぶすな「筑紫」は、茫漠たる古代の煙霧に包まれたまま、たたずまいはまことにみすぼらしい痩地として朽ちかけてゆくのみだ。
 けさ、私は老父の雁書によって、この「筑紫」部落の中が、細かくいえばおよそ二十ほどの小字(こあざ)に分かれていることを、ゆくりなくも思い出したのであるが、おお! クララとよぶ小字には、確かそのあたりに薮があって、秋には烏瓜の実が真赤に熟(う)れてぶらさがっておった。

 2

 土地の字名(あざな)は、畔名(あぜな)であった。
 土地台帳にはあっても、現在、町役場の戸籍簿には記載していない。まして、手紙の宛名にも常用しないため、私は離郷二十余年の間、まったく忘じ果てていた小地名である。さりながら古里びとらは、いまだに小字(こあざ)の地名を慣用し、これが生活共同体の最小単位となっている事情は、他の村落と変わりない。

 さて、私のおぼろな記憶のなかで、笹の葉ずれのごとくかすかな音をたてて蘇ってくる「筑紫」部落の小字名(こあざな)を、机のうえに列記しておこう。
 城屋敷(しろやしき)  仮塚(かんづか)
 太郎丸(たろまる)   仮尺(かりじゃく)
 五郎丸(ごろまる)   以来尺(いらいじゃく)
 米丸(よなまる)    栗木(くりき)
 裏門(うらもん)    扇町(おおぎまち)
 城の越(じょうのこし) 粕村(かすむら)
 御笠(みかさ)     名越(なこし)
 倉良(くらら)     弁入(べんにゅう)
 久倉良(くくらら)   天神田(てんじんだ)
 城山(きやま)     ……
 この小字(こあざ)のすべてに、人家があるわけではない。多くは田や畠や薮におおわれた小さな地名なのである。
 子どものころに、茅花(つばな)のうすら甘く湿った綿毛を抜いて噛んだ、あの土手(どて)。
 姑(しゅうとめ)の邪樫に耐えかねたという、若い後家が入水した、あの堤(つつみ)。菱の花が白く浮いていた堤。
 誰が誰を呪ったしわざかわからないが、五寸釘が打ち込まれていた大杉。
 廃品の真録(あかがね)買いをしていた朝鮮人一家の掘っ立て小屋。いつのまにか無人(ぶにん)になっていた、その小屋。
 ある年、鉄道敷設工事が始まり、枕木の山が井桁になって空地に並んだ。年上の露ちゃんという娘が、私を井桁の中に誘い込み着物の前を無理にはだけさせた、あの空地。
 秋の収穫(とりいれ)がすんだころ、田んぼに蓆掛(むしろが)けの芝居小屋ができあがり、ドサまわり「田舎千両」の役者たちが繰り込んできた、あの刈り株が並んだ田。幟が(のぼり)がはためいた田んぼ。
 きたない避病院のあった森…‥。
 そのような、歩きながら歩幅で測れそうな小さな土地の名を列記していくうちに、むかしの古里びとの面影が、木洩れ日のなかを近づいてくる時のように明滅するのである。
 やがて、はしなくも気づいたことであるが、なんと、ここには古代の城塞か、もしくは中世の城廓にゆかりあるとおぼしい地名が散在しているではないか! 私はもう一度、ホホジロの声を聞いた気がする。
 いつの時代に、いかなる者が? いや、かつてそれらしい口碑も聞かず、遺構とても無く、ただ鳥毛だつばかりの貧しさで私の少年時をくるんでいた寒村である。それがいま、模糊たる歴史の夕霧のなかから、妖しげな廃城を顕わしてくる思いだ。



 私の生まれた「筑紫」部落は、低い平らな丘の裾まわりに、こびりついて、かすかに息づいている。
 この小丘陵を訪ねるなら、国鉄原田(はるだ)駅から東北方約二キロ。もし、西鉄大牟田線筑紫駅に降り立っなら、つい、西側に鼻を突きつけている。小丘陵のその端(はな)に、私の学んだ小学校が建っている。校庭からは、筑前平野の南端と筑後平野の北端とが緩慢として相接する地勢を一望しうるのである。つまり、この小丘陵は、砂時計の中央の、くびれた部分に似ているのだ。悠久の「時」の砂粒は、この小丘陵を擦りながら流れてきたのであった。
 ここに佇ん(たたず)んで北方を望めば、約8キロを隔てて四王寺山が、なだらかな陵線を空に描いている。大野山とも称し、この山中に隠れて、わが国最初の朝鮮式山塞たる大野城址があり、山裾には、かつて青丹よし平安京(ならのみやこ)を模した大宰府(だざいふ)の都城が横たわっていたのである。
 大野山の手前に、宮地嶽(みやじだけ)が寝そべっている。万葉集で蘆城(あしき)山といわれた山。その裾をめぐって、いまは宝満(ほうまん)川とよぶ蘆城川が南流してくるのが見える。「月夜よし。河音清(かはとさや)けし。いざここに 行くも去(ゆ)かぬも 遊びて帰(ゆ)かむ」。いま川沿いに馬で山路を遠ざかるのは、あれは京師(みやこ)に帰っていく官人である。この川は、いま私がたたずんでいる小丘陵の前を、しずかに蛇行し光っていく。このあたり、夏も早い。村の子ども達が水遊びをしている。それに混って飛沫をはねちらしているのは、どうやら幼年の私と、沖縄海戦で戦死した弟であろう。

 私はカメラを西南方に向ける。そこには基(きの)山が、古代の烽火台を天空の一角に横たえている。木(こ)の間(ま)がくれに、うすい煙が漂っているのは、あれは防人(さきもり)が夕餉の仕度をしているのではあるまいか。ここの朝鮮式山塞もまた、北方の大野山と同時に、七世紀中葉に構築された。大野山は大宰府の北面を、基山は南面を防備するため、天智天皇はそこに有史以来の大土木工事を命じたのである。
 南北両面の山塞建設を指揮したのは、朝鮮の王国・百済(くだら)の亡命戦術家、憶礼福留(おくらいふくる)であった。隣国の新羅(しらぎ)と、大陸の唐とに圧迫された百済王国は、ヤマト朝廷挙げての救援出兵にもかかわらず、惨敗を喫して滅亡した。こののち憶礼福留は、自(し)が運命のごとく荒れ狂う玄海難を渡って、筑紫路にたどりつき、ヤマト朝廷の命により築城に着手した。彼が築いた山塞は、いまや潰(つい)えさった母国の辺(あたり)の雲行きを睨むこととなったのである。
 悲運の戦術家の瞼には、しかし、亡国の美(うるわ)しき首都、扶余(ふよ)城のたたずまいが、このとき涙とともに映じなかったであろうか。なぜならば、朝鮮錦江下流、扶余城背面の山峰には扶蘇山城があり、南方はるかな連山には青馬山城があった。彼は、その地形さながらな筑紫路に検地をおこない、大野山と基山の両山塞を造りあげたからである。
 小学校の放課後を告げる鐘が、私の耳のうしろで鳴った。



 いま、小学校の鐘が鳴りやんだばかりの丘。
 この小丘陵こそ、おそらく日本列島の西端九州に、文化の曙が訪れるころから、すでに要衝の地点であったに違いない。
 大陸渡来の稲作と金属器によって、弥生式文化をおし進めていた北九州では、早くも西暦紀元前後の数世紀間に、小国家を群立するにいたった。クニ(国)といっても、現在のムラ(村)を幾つか寄せたほどの地域を単位にしたものである。そういう一国、博多湾沿岸に存在した「奴(な)」の国では、大陸の後漢(ごかん)光武帝から金印を授けられるという事例があった。一世紀中葉、正確には西暦57年のことである。
 くだって三世紀中葉、237年に、邪馬台(やまと)連合国が擁立した女王卑弥乎(ひみこ)は、大陸の魏(ぎ)王と親交をもっている。この邪馬台連合国家が、北九州地方に存在したか、近畿大和地方に相当するかは、いまだ学界に定説がない。が、私は北九州説に加担する一人である。
 すなわち三世紀ごろ、私のふるさと一帯はツクシのクニとして、その連合国家の一環に加わっていたはずである。しかも、このクニが、北部の奴のクニ(福岡市付近)と、南部の投馬(つま)のクニや邪馬台(やまと)のクニ(福岡県南部)の中間に位置することは、さきに砂時計のくびれの部分に相当すると述べたとおりである。
 されば、女王卑弥乎と大陸魏王の使者たちも、いま小学校のある小丘陵の下を、ホホジロの囁き声をききながら往還したことであった。
 やがて、日本列島の政治的中心は近畿大和地方に移り、かくてヤマト朝廷の支配する古代国家的統制が、逆に波及してくることとなった。すでに、北九州一帯の文化的独立先進性は喪われ去っていたとはいえ、もし、地方長官たる国造(くにのみやつこ)をここに置くとすれば、当然、古来の要地たるこの小丘陵を根拠地としなければならなかったであろう。こうして、小丘陵に名づけられていたツクシは筑前・筑後一円の国名にまで拡大し、さらに朝廷の一大出先き機関たる大宰府が、筑前の国に設置され、西辺を掌握するにいたって、九州を「筑紫の島」と称(よ)ぶまでになったのである。
 とはいえ、古代政治にも軍事にも詩歌にも、この小丘陵に関する記録は一片だに無いのだ。あたかも、この小丘陵は、ツクシという地名の抜け殻のごときものである。巨大な化石のようにこれは平野の一角にねむっている。
 しかし、私は思う。「遠(とお)の朝廷(みかど)」大宰府が設置されるころ、この小丘陵は古代の甲冑を脱ぎすてて、一種の形而上的・信仰的地点(ポイント)にまで、変貌していたのではあるまいか。筑紫部落内の小字「御笠」という地名が、私にそのような想像を誘うのだ。
 古来、大宰府を中心とした一郡を「御笠郡」と称したことは、はじめに述べた。ミカサとは、もともと防衛にゆかりある言葉なのだ。このことは奈良の近郊に位置する三笠山を想起すれば足りるであろう。三笠は天子の御蓋(みかさ)でそれを守護するの意味である。ゆえに三笠山といえば、近衛の大将・中将・小将の異称にもなった。平安京を模した大宰府の近郊に、ミカサという地名が存在してもふしぎではない。
 思うに筑紫部落の小丘陵は、軍事的にはすでに規模が小さすぎる地勢であるが、歴史的にまた信仰的にミカサにふさわしい地点と比定されたものであろう。したがって、ここに「御笠」という地名が発生し、やがて大宰府を取りめぐる郡名になったのではあるまいか。



 さきに私は、この筑紫部落の小字名(こあざな)に、古代の城塞か、もしくは中世の城廓にゆかりあるとおぼしいものが残っている、と書いた。私が弱年の詩に「いつの世 誰が 何ほどの祈禱(いのり)ごとあってか 伝家の一刀を沈めたと祖母が語ったふる里の井戸」という一節がある。これは小字(こあざ)「城屋敷」にあった古井戸の追憶である。
 私の、零落後の生家は、たまたまこの「城屋敷」から、小字「城の越」しに移り住んだ。「城の越」は、城外に出る地点だ。事実、「城の越」は、小丘陵と平地の接点にある。
 つぎに、タロマル・ゴロマル・ヨナマルも、まごうかたなく城塞の用語である。マルとは、ほかならぬ朝鮮語で城塞を意味するのである。されば「太郎丸」は城主の長子・太郎が守備する城、「五郎丸」は五郎が城、という意味を帯びていた。
 かくて、私は想定する。いつの世にか、この筑紫部落には、「城屋敷」を中心に「太郎丸」「五郎丸」「裏門」「城の越」などを配置した一城が、存在したのではあるまいか。
 すでに述べたごとく、城の実在を証明する遺跡はもとより、出土品も目にしないし、伝承も耳にしない。歴史の風霜は、一つの城塞をみごとなばかり完全に消滅せしめた。ただ痩々たる田や畠や薮や湿地にへばりついて、古い怨霊のような名称のみが残っているのである。

 ところで、老父の手紙にもあるクララという小字(こあざ)の起源は、何であろうか。
 私の臆測では、朝鮮半島の王国クダラ(百済)の訛りであろうと思う。私の郷里では、d音は容易にℓ(エル)音に訛音する習癖があるのだ。
 大宰府防備の大野山・基山両城塞建設を指導したのが、百済の亡命戦術家であることも、すでに説いた。このとき随従してきた百済びとが、私の生地「筑紫」部落の一隅に残留したであろうという想像は、あながち奇矯ではないはずだ。やがて、その一角を、土着の民はクララと訛って称ぶことになったのかも知れぬ。私の妄説ならば、学者、すみやかに叱正を賜え。



 父は何のために、あの狭い畠を売り払ったのか、手紙では詳(つまびら)かでない。母の法事の出費ででもあろうか。
 私はつねづね老いてゆく肉親に冷淡の誹(そし)りを受け、かつまた消亡してゆく故郷に愛著なき者であるが、けさ、空耳にホホジロの囁き声を聞いたばかりである。
 忽然として現じ、須臾(しゅゆ)にして掻き消えた、かの廃城の幻影をば、ひそかに「頬白城」と名づけようと思うが、如何。

(追記)
 古田さんによれば、「くだら」(百済 朝鮮語ではペクチェと読む)は日本語である。羅 (ら) は村 (むら) ・空 (そら) の「ら」である。「くだ」は、果物の「くだ」。つまり「くだら」(百済)は「豊かな土地」といった意味ではないかという。
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