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《真説古代史・近畿王朝草創期編》(54)

「天智紀」(42)


鎌足と鏡王女(22):悲劇の王女(7)


 「多武峰定恵」の業績(2)「十三重塔の建立」について検討してみよう。

 多武峰の談山(たんざん)神社の祭神は藤原鎌足とされている。この神社は明治初年の神仏分離令以前は寺院であり、多武峯寺と呼ばれていた。十三重塔は明らかに仏教形式の塔だが、他に類を見ない実にユニークな美しい塔である。

多武峰寺十三重塔
(談山神社HPより拝借)

 談山神社の公式サイトの神社説明「略記」は文字通りの略記であまり役に立たない。ウィキペディアから引用する。

 鎌倉時代に成立した寺伝によると、藤原氏の祖である藤原鎌足の死後の天武天皇7年(678年)、長男で僧の定恵が唐からの帰国後に、父の墓を摂津安威の地から大和のこの地に移し、十三重塔を造立したのが発祥である。天武天皇9年(680年)に講堂(現在の拝殿)が創建され、そこを妙楽寺と号した。大宝元年(701年)、十三重塔の東に鎌足の木像を安置する祠堂(現在の本殿)が建立され、聖霊院と号した。

 談山の名の由来は、藤原鎌足と中大兄皇子が、大化元年(645年)5月に大化の改新の談合をこの多武峰にて行い、後に「談い山(かたらいやま)」「談所ヶ森」と呼んだことによるとされる。

 「大化の改新の談合」と書いてあるが、『日本書紀』にはそのような記事は全くない。談山神社HPの「略記」も、中大兄(天智)と鎌足の初めての出会い後「西暦645年の5月、二人は多武の山中に登って、「大化改新」の談合を行いました」と書いているが、645(皇極4)年6月の「乙巳の変」(蘇我蝦夷・入鹿謀殺事件)のときの談合と混同しているようだ。ただし『日本書紀』には645(皇極4)年5月の記事は皆無だ。寺伝の編纂者は、どうしても二人を多武峰に登らせて、史実めかした由緒付けが欲しかったのだろう。ちなみに「乙巳の変」の談合は次のように行われている(皇極3年正月条)。

 後に他の頻(しきり)に接(まじ)はることを嫌(うたが)はむことを恐りて、供に手に黄巻(ふみまき)を把りて、自ら周孔の教(のり)を南淵先生の所に學ぶ。遂に路上(みちのあひだ)、往還(かよ)ふ間(ころほひ)に、肩を並べて潜(ひそか)に圖(はか)る。相協(あひかな)はずといふことなし。

 談山神社のHPによると、現在の十三重塔は室町時代に再建されたものだという。その他、種々の宝物も全て鎌倉時代以降のものであり、大和王朝草創期頃から伝わっている文物はないようだ。

 ウィキペディアにとると、十三重塔は、定恵が帰国した後、678(天武7)年に建立したとある。この年次は「貞慧伝」(帰国676年)の場合は矛盾がないが、「多武峰定恵」(679年帰国)には矛盾する。帰国前に建立したことになってしまう。しかし、年次の比定に矛盾はあっても、定恵が十三重塔を建立したことまで疑う根拠はない。結局「多武峰定恵」記事から取り出せる事実はこれだけと言うことになる。

 「貞慧伝」では定恵は676年に死亡しているのに、「多武峰定恵」や多武峰寺(談山神社)の寺伝では定恵は678年以降に多武峰で十三重塔を建立している。このとんでもない矛盾は一体何なのだろう。私の知る限りでは「多武峰定恵」や「多武峰寺寺伝」を虚構として一笑に付し、まともに取り上げている人はいない。私の考えも一笑に付されてしまうかも知れないが、この問題を取り上げてみよう。

 毒殺か病死かという問題は置いて、「貞慧伝」が貞慧は帰国後すぐに死亡したと記録しているのは確かだと思える。筆者(恵美押勝)にとって貞慧は伯父である。その伯父が714年まで生きていたのに、676年死んだなどと、ウソをついたり、あるいは間違ったりするだろうか。『藤氏家伝』は『日本書紀』の記録との整合性をもたせたり、事績を誇大に粉飾したり、あるいは不都合なことは書かないという隠蔽をしている点はあるかも知れないが、伯父の死亡期日をごまかさなければならない理由はないだろう。また、『藤氏家伝』は藤原家に伝わる記録や口伝に依拠して書かかれているだろうから、伯父の死亡期日を大きく間違えることも考えられない。

 一方、「多武峰定恵」や「多武峰寺寺伝」の方はどうだろうか。十三重塔は妙楽寺のシンボルとも言える大事な建造物である。定恵以外の人が建立したのに、いくら時の権力者との深い関係を誇示したいからと言って、その人の功績を隠蔽して、他人(定恵)のものとしてしまうなんてあり得るだろうか。寺伝にも他の記録との整合性をもたせたり、事績を誇大に粉飾したり、あるいは不都合なことは書かないという隠蔽をしたりすることは大いにあり得ることだが、自分の寺の最も重要な建造物の建立者について間違えたり、ウソをついたりすることはないだろう。

 両方とも事実を伝えているとしたら、一体これはどういうことなのだろうか。そうです。貞慧と定恵は別人だ、というのが私の大胆すぎる仮説です。

 問題が二重三重に錯綜してしまった原因は『日本書紀』の〈定恵は内大臣の長子なり。〉という分注にある。『日本書紀』の編纂者の勇み足である。あるいは不比等の指示だったかも知れない。先に指摘したように、これがあるため「貞慧伝」の作者は貞慧の渡唐期日を定恵の渡唐記事になんとか見せかけようと苦心している。「多武峰定恵」や「多武峰寺寺伝」は『日本書紀』や「貞慧伝」と整合性をもたせたり、藤原家との深い因縁を作為しようと苦心惨憺しているが、まさか十三重塔の建立者・定恵が676年に死んだということにするわけにはいかない。

 貞慧と定恵は別人であるという仮説、どうでしょうか。ちょっと苦しいかな。

 最後に、「貞慧は鏡王女の子?」という問題を取り上げよう。

 「貞慧伝」の示す「665年に11歳で渡唐」という記事が事実だとすると、貞慧の出生は650年ということになる。鏡王女などが采女として強制的に拠出されたのが白村江の敗戦で九州王朝の権力がヤマト王権に簒奪された後だとすると、それは662年以降ということになる。「貞慧伝」が全て虚偽でない限り、貞慧が鏡王女の子ではあり得ない。『日本書紀』の記録が貞慧のものだとすると、渡唐563年だから、なおさらその可能性はない。

 天智から鎌足に下げ渡された女御が子を妊っていたという『大鏡』の説話も学者たちは一笑に付しているようだが、もしそれが事実を伝えたものならば、鏡王女の子として可能性があるのは不比等である。

 鎌足の出生年はどこにも記録がない。また『日本書紀』の死亡記事には享年の記録がない。しかし「大織冠伝」が享年56歳(669年に死去)と記録しているので、それから逆算して鎌足の出生は614年というのが定説となっている。鎌足の享年は家伝の記録だから、信用するほかないだろう。

 不比等の場合も出生年は不明で、『続日本紀』の死亡記事(720年死亡)に享年の記録はない。平安時代の別文献(『公卿補任(くぎようぶにん)』・『中右記(ちゆうゆうき)』・『帝王編年記(ていおうへんねんき)』など)に享年62歳とあるので、それから逆算して不比等の出生は659年が定説になっている。(ちなみに、享年61歳と記録している文献もあるそうだ。)

 上に挙げられた文献が不比等の享年を62歳とする根拠をどこから得たのか知るよしもないし、不比等の死後500年~600年後に書かれたこれらの文献が史料としてどのくらい信用できるものなのかどうかも私のような素人には判断するすべがない。

 『藤氏家伝』上巻は「大織冠伝」を「二子貞慧・史(ふびと 不比等の別表記)有り。史は別に伝有り。」という文言で結ばれていて、そのまま「貞慧伝」に続いていく。しかし下巻は「武智麻呂(不比等の長男)伝」であり、「不比等伝」は今に伝わっていない。書かれたのだが散逸したとされているが、「藤氏家伝」の他の部分がきちんと残されているのにおかしくはないか。私は書かれなかったのではないかと考えている。「不比等伝」を書き残すには不都合なことが多すぎたからではないのか。不比等の出生年は定説より数年後である可能性を、つまり不比等は志貴皇子と鏡王女の間の子であるという可能性を、私は捨てきれない。

 不比等が志貴皇子と鏡王女の間の子であるとすると、これはまさに青天の霹靂、すごいことになる。九州王朝の血脈を継ぐものがヤマト朝廷を牛耳ってきたことになる。と、思いがけないところに来てしまって、自分でも驚いている。でもこれは埋めなければならない事柄がまだたくさん残っているのでちょっとためらいもあるが、一応一つの仮説として書き留めておくことにした。
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