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2006年9月4日 ホームページ『「日の丸・君が代の強制」と闘う人たちと勝手に連帯するレジスタンスの会』からの引越し完了しました。
《真説古代史・近畿王朝草創期編》(53)

「天智紀」(41)


鎌足と鏡王女(21):悲劇の王女(6)


 「多武峰定恵」が伝える定恵の業績の(1)を検討してみよう

(1)鎌足の遺骸を阿威山から談峰に改葬した。
 ここに「阿威山(あいやま)」という印象的な山名出ている。これついて思い出したことがある。『「継体陵」はなかった』という古田さんの講演記録にこの山名が出ていた。その部分を引用する。

 そこで十年近く前に、安威の地域を歩き回った。そこには追手門大学がありますが、そこの北側に安威神社があります。現在は安威三丁目ということになっている。ここがまさに安威の真ん中。そうすると『古事記』『日本書紀』が陵は藍(アイ)にあると言っているのは、このあたりの地域を指していると考えられる。

 そうしますとこの安威神社は、大きい神社ではないが、なかなか良い神社です。しかも注目すべきは、神社の周りを円墳が囲んでいる。大きくはないですが円墳が安威神社を囲んでいる。わたしはハッキリ言えば、その安威神社の近辺にある円墳の一つ、円墳でなくとも良いですが、そこに継体を葬ったお墓があるのではないか。そう判断した。

 その証拠には、そう言うのは少し早すぎますが、安威神社からそんなに遠くないところから藤原鎌足の大織冠が出て来ました。当時ぜんぜん期待しないところから出てきました。大織冠は藤原鎌足以外には使われていない。ところがその古墳は、巨大古墳でもなんでもない。たいして期待していない古墳のところから大織冠が出てきました。藤原鎌足の墓は100年ぐらい後ですけれども。その鎌足にしても、作るとすれば巨大古墳を造らせる力ぐらいはあったと思う。これは付け加えておきます。

 「安威神社からそんなに遠くないところから藤原鎌足の大織冠が出て来ました」と言うのだ。もしこれが本当なら、(1)はウソの話ということになる。

 古田さんが根拠なしに上のようなことを言うとは思えないので、念のため「安威山」を検索してみた。「安威山」は現在は「阿部山」と呼ばれているという。「阿部山古墳―藤原鎌足の墓―」 が豊富な写真も掲載していて、詳しく解説している。直接引用は長すぎるので概要をまとめる。

 阿武山(海抜281.1m)の麓、茨木市大字安威と高槻市奈佐原にまたがる場所に阿武山古墳がある。この古墳は、1934(昭和9)年、京都大学阿武山地震観測所の施設拡張工事にの時に発見され、京都大学の梅原末治氏らによって発掘調査が行われた。直径約80m、石室は花崗岩の切石とレンガで造られ、内側は漆喰を塗り、中央に棺台があった。台上には麻布を漆で固めてつくった夾紵棺(きょうちょかん)が置かれ、棺内には60歳前後の男性人骨が横たわり、頭部には、ガラス玉を銀線で連ねて錦で包んだ玉枕(この出土物を梅原氏は「玉枕」と命名した)が置かれていた。出土した土器から見て、古墳の築造年代は、7世紀前半~後半と考えられており、飛鳥時代としては、数少ない貴重な墓として、国史跡に指定されている。

 発見当時「貴人の墓」として注目を集め、墓室の規模や構造、特殊な埋葬形態から、被葬者は相当な地位にあった人物と考えられた。鎌足の墓は阿武山から多武峯へと改葬されたと伝えられているので、ここを藤原鎌足の墓とする説が沸き起こった。

 しかし、遺体が金糸をまとっているところから、古代皇族の墳墓の可能性もあるため、科学的調査は非礼にあたると内務省が介入し、4ヶ月後には棺と遣体は元通りに埋めもどされてしまった。当時は軍部の権勢が全盛で、天皇家絶対の風潮の中、内務省が憲兵隊を動員して、研究者らの立ち入りを禁止し、出土品も含めてすばやく埋めもどしてしまったのである。

 しかし、梅原末治氏らの学術調査の報告書「大阪府史蹟名勝天然紀念物調査報告第七・摂津阿武山古墓調査報告」が1936(昭和11)年刊行されている。

 その後、古墳については一部の研究者を除き殆ど忘れられていたが、1982(昭和57)年に、京大地震研の一室から、古びた数十枚の写真が発見された。それは、発掘直後に京大の研究者たちが密かに撮影した、阿武山古墳被葬者のレントゲン写真原板を含む調査写真だった。さらに、遣体から採取した頭髪も見つかり、奈良国立文化財研究所と東海大学医学部整形学科による数年がかりの分析調査が行なわれた。

 1987(昭和62)年になって、発掘当時撮影されたX線写真の分析が行われその結果、埋葬者は背骨と肋骨の骨折が原因で死亡しており、金糸は冠帽の刺繍に用いたとも推定されるという報道がなされた。これをもって再び被葬者が「藤原鎌足」ではないかと取りざたされた。

 遺体が纏っていた金糸(玉枕)が、藤原鎌足に送られた「大織冠」ではないかとされ、また鎌足の死亡の原因が落馬によるものだという記事(出典を私は知らない)もあり、骨折がこれを証明している、という訳である。

 しかし、墓の主は、鎌足の他に鎌足とほぼ同時代の阿部倉橋麻呂(内麻呂)や蘇我倉山田石川麻呂などをあげる学者もいて、鎌足墳墓説はまだ定説とはなっていないようだ。

 誰も問題にしていないようだが、「大織冠伝」に次のような記録がある。

送柊(はぶり)の具(そなへ)は、其の遺言に因りて、務(つと)めて節倹(せつけむ)に従ひて、宿志(しゆくし)を申(の)ぶ。粤(ここ)に、康午(かうご)年閏九月六日を以て、山階の合(てら)に火葬(くわさう)す。

 埋葬の年・康午は鎌足の死亡年・己巳(669)の翌年の干支であり、年次の方は辻褄が合っている。しかし、鎌足が山科の寺に火葬されたことが事実なら遺体は残っていないのだから、阿武山古墳が鎌足の墓であるわけがなくなってくる。逆に、阿武山古墳の遺体が鎌足のものならば、「大織冠伝」の火葬記事がウソと言うことになる。

 また、阿武山古墳が鎌足の墓であるとすると、今度は、阿威山から多武峰に改葬したという「多武峰定恵」の、説話があやしくなってくる。

 いろいろな文献を読んできたが、私は遺体の頭の位置にあったという「玉枕」は藤原鎌足に送られた「大織冠」だというのが真実ではないかという感触を持つようになってきた。古田さんは「そう言うのは少し早すぎますが」と断言は避けているが、私は古田さんの仮説は正しいと思う。その仮説を基準に全ての矛盾を解いてみるべきだろうと思っている。

 古田さん以外にも「玉枕=大織冠」説を主張している人がいた。鎌足・定恵・不比等についての学者さんたちの考えを知りたいと、一昨日図書館から『藤原不比等』という同表題の本三冊と『藤原鎌足』という表題の本を一冊借りてきて読んでいる。『藤原鎌足』にそのことが取り上げられていた。

 『藤原鎌足』(思索社 1992年刊)は梅原猛(哲学)・杉山二郎(美術史)・田辺昭三(考古学)三氏による鼎談を記録したものである。さすが専門家たちの鼎談。ネットで得る情報だけでは見えない事柄が見えてくることがある。しかし、なかなか面白い議論がなされているにはいるが、三氏ともにヤマト王権一元論者なので、九州王朝の存在を認めればすっきりと説明できる問題ではつまずいている。ともあれ今問題にしている「玉枕」の話題の部分を紹介しよう。「玉枕=大織冠」説を主張しているのは梅原氏である。梅原氏が「阿武山古墳=鎌足の墓」説を提出すると、他の二氏はそれを強く否定する。その後の談話。

杉山 阿武山古墳の人骨の年齢はだいたい六十歳前後というわけでしょ。

田辺 報告書によれば、遺体は六十歳前後で、身長が一メートル六四~五センチですか。六十歳前後というと、鎌足の死んだのが五十六、七歳ですからね、これはぴったりです。帰化系の血が入ってるということになると、背も高い人のようだし。まあ理屈はいろいろつけられると思うんです。とにかく非常に有力な人物の墓であることはまちがいないですけど、ぼくはやっぱり直接あれを鎌足という人間に結びつけなくてもいいと思うんですね。

梅原 ぼくが阿武山の古墳を鎌足の墳墓じゃないかつていうのは、もう一つ、じつはいわゆる玉枕というのが大織冠じゃないかと思っているからなんですよ。ぼくは最初何も知らんで阿武山に行ったんや。そしたら墓があったといわれて、梅原未治さんの報告書読まないうちに写真だされて見た感じがね、これは冠だなと思った。ひょっとして大織冠だとえらいこっちゃなあと思って、それから報告書読んだら玉枕とでてるわけですよ。ところがいまでも枕と思えんのです。だいたい古墳から玉で綴った枕がでてくるなんてないでしょう。

田辺 ないですね。

梅原 その枕はね、銀の針金でつくってあるんですよ。つまり枕だったらこう輪になったものが両側に二つなければならない。それが針金でね。しかも宝石がいっぱいに、四百いくつ大きな宝石があるんですよ。その宝石の質が梅原報告では古墳にでてくるものじゃなくて、むしろ正倉院のああいうものに近いという。それが頭の側からでてきて、さらに骨には金モールがからまっていたんですよ。それで梅原末治さんは頭のすぐそばにあったから枕と判断した。金モールの骨についてはあまり説明してないんです。だいたい枕にそんな針金を巻いて宝石入れるかどうか。ぼくはやはり非常に大きな房のついた冠で、そうするとおそらく大織冠じゃないかというふうに考えたい。そうするとこれは副葬品が何一つないというのは、最後にこう貰ったばかりの冠を抱きしめて死んだというのはね、あんまりドラマになりすぎるんでね。(笑)

田辺 だいたい、そういう形式の枕はないですね。

杉山 ありませんね。

田辺 そんな玉で巻いたようなものはないですね。

杉山 かなりこまかい、これに近いというものは、仏像でいうと三月堂の不空羂索観音の冠ですよ。これ式ですね。こうして宝石がありましてね。銀で針金ができておって……。

梅原 ぼくが鎌足説にこだわるのはね、それが一つあるからなんですよ。

田辺 そうですか。大織冠ですか。なるほどねえ。じつはぼくの方がすっかり文献にまどわされて遺物を無視し、梅原さんの方がものに即して鎌足説をだすというのは、これはまったく逆の話で、考古学徒としてまったくお恥ずかしい限りです……。(笑)それにしても玉枕大織冠説とは恐れ入りました。これはいけそうですね。できることなら、阿武山古墳をもう一度あけてみてしっかり観察すれば、勝負がきまりそうですね。

杉山 玉枕といういい方はどうも……。

梅原 だからもう一ぺん開けてほしいよ。あれが枕っていうのはぼくはどうしても無理なような気がする。

田辺 たしかに冠と考える方が自然でしょうね。あれが大織冠そのものであるとしたら、これは例の奴国王の金印と同じ意味をもちますからね。文献と造物の縫合点ですからね。七世紀の謎の一つを解決することができますよ。

梅原 それをまた入れて埋めてしまったんでしょ。

田辺 これを掘った方が病気で亡くなったというのは、タタリ、怨霊ですかね。(笑)

梅原 やっぱり祓わんといかんぞ。(笑)いまでも髪の毛と髭と皮膚みたいなものと、一部だけど腰の骨と頭の骨みたいなものが残っている。

田辺 その冠の話をもっと早くだしてくれたらあれほど強く反対しなかったのに。立場がなくなりますよ。

梅原 ちょっと笑われるかと思って遠慮してたんだ。(笑)

田辺 物に即していわれると一番弱いですね。

梅原 玉枕なんていうのは梅原末治さんがつくった言葉でしょう。

杉山 そうなんでしょうね。

田辺 聞いたことないですね。

梅原 それでだいたいそんな例はないと、ご自分でも書いている。枕を古墳に彫った例はあるんだってね。ありますか。

田辺 石をうまく刳って、頭がちょうどのるような形につくったものはあるんですよ。石棺の底に彫りこんだものもあります。陶枕はどうですか。

杉山 唐の陶枕なんかもそれですね。まるっきりやり方はちがいますね。

梅原 枕にだいたいそんなに滅茶苦茶に宝石入れるってことは考えられない。

杉山 考えられないと思いますね。

田辺 中国にもないですか。

杉山 ないですね、それは。工芸的に推測しますと、大織冠そのものはもちろんよく解らないのですが、大宝律令や養老令の衣服令にでてくる朝服の冠とはちがったものと思われますね。諸皇子らの礼冠はいわゆる三山宝冠に押鬘という唐草透彫の金属装飾や、漆羅という背板、水晶・琥珀その他の玉をつけた豪華なものだったので、この大織冠は中国服制の曼冠風に刺繍や組み紐を使用したり、金属のかわりに舶載織物をふんだんに装飾した冠だったのではないでしょうか。

梅原 頭の下からでてきたから枕だと考えた。これはかぶってれば頭の下になるよ。

田辺 じっさい山の南に葬るとか、山科に殯したとか、それと改葬の記事ですね。あんなのを見たら、とても阿武山説はもう存在するはずがないと、逆に文献の方にとらわれてまったく思ってもみなかったんですけどね。どうも大織冠でだいぶ動揺しました。(笑)

(以下略)

 最後は杉山・田辺両氏も「阿武山古墳=鎌足の墓」説に傾いている。これから後、私はこの仮説を採用して議論を進めていこうと思う。
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