FC2ブログ
2006年9月4日 ホームページ『「日の丸・君が代の強制」と闘う人たちと勝手に連帯するレジスタンスの会』からの引越し完了しました。
《真説古代史・近畿王朝草創期編》(52)

「天智紀」(40)


鎌足と鏡王女(20):悲劇の王女(5)


 定恵を扱っているもう一つの資料「多武峰定恵」を読んで見よう。前々回に掲載した文章の続きから、まずは渡唐・帰国記事。

 (定恵は)沙門(しゃもん)の恵隠(えおん)のもとで出家した。白雉(はくち)四年(653)に、遣唐使に従って海を渡った。都の長安に着いたのが、高宗(唐の第三世李治)の永徽四年のことであり、恵日寺(えにちじ)の神泰(しんたい)に師事して学問すること、ほとんど十年間に及んだ。調露(ちょうろ)元年(679)には、百済の使者に従って帰国したが、それは、我が国の白鳳七年九月のことである。

 神社縁起は決定版が出来るまでには時代とともにいろいろな追加・削除などが行われているものだろう。この定恵の渡唐・帰国記事は、たぶん「貞慧伝」を下敷きに書かれたと思われる。

 年次を示す語句の後の西暦を示す数字は訳者(今浜氏)の付けたものである。まずこれらを検討しておく。

渡唐年
 今浜氏は白雉4年を「孝徳紀」の白雉に従って653年としている。「貞慧伝」と同様に、唐の年号・永徽四年と同じと書いてあるから、そのようにせざるを得ない。

帰国年
 調露も唐の年号であり、調露元年は確かに679年である。これを虎関和尚(あるいは和尚が用いた原典)は白鳳7年と同じと書いているが、前回の対応表で分かる通り、これは全くのデタラメ。実際には679年は白鳳19年である。今浜氏はこの点は全く無視して何の関心も示していない。もしかすると九州年号を認めない学者さんなのかもしれない。

 また、永徴四年~調露元年は27年間もあるのに本文は「恵日寺の神泰に師事して学問すること、ほとんど十年間に及んだ」とすまし顔で書いている。虎関和尚(あるいは原典の作者)は、九州年号は8世記に抹殺されているのだから致し方ないとしても、遣唐使を通して文物のお手本にしてきた唐が使っていた年号について無知だったとは考えられない。「貞慧伝」の記事を下敷きにしたための疎漏だろう。

 さらに「貞慧伝」と同様に、679年にはすでに存在しない国「百済の使者に従って帰国した」と百済を持ち出している。

 次に掲載する続きの文中に出てくる年次についても、先に説明しておこう。

 鎌足の死去年を干支・己巳(きし)で書き表している。前回の対応表でも分かる通り、この年は669年であり、『日本書紀』の記録と一致する。

 もう一つは貞慧の死亡年で、和銅7年となっている。この年は西暦では714年に当たる。

 ここで『日本書紀』・「貞慧伝」・「多武峰定恵」の示す年次の対応表を作ってみる。(「貞慧伝」は白鳳で示された年次の方を取る。)

  『書紀』 「貞慧伝」 「多武峰定恵」
――――――――――――――――――
渡唐 653   665    653
帰国 665   676    679
死亡 ?    676    714


 上の表で分かる通り、「多武峰定恵」は帰国後35年間も生きている。「多武峰定恵」の続きの文章にはその間の定恵の帰国後の事績が書かれている。(文末の訳者による注も掲載しておく。)

 定恵が唐国に留学していた間に、父の大織冠が、すでに亡くなっていたので、定恵は、弟の大臣・藤原不比等に尋ねて言った。
「父君のお墓はどこでしょうか」。
「摂津の国の阿威山です」
と答えると、定恵が言った。
「昔、父君が密かにわたしに語られたことがありました。『大和の国の談峰(とうのみね)〈今は多武峰と言う〉は、甚だ霊妙な地であり、唐国の五台山(注①)に勝るとも劣らない。わしが、もしも彼の地に墓を築いたならば、子孫はますます繁栄するだろう』。わたしが五台山にいたとき、夢の中で、わたしが談峰におり、そのわたしに向かって、父君が言われました。『わしは、すでに天上に生を受けている。お前が、この地に寺塔を建立し、仏乗(ぶつじよう 注②)を修行するならば、わしもこの地に降って、子孫を擁護しよう』。それは、ちょうど己巳(つちのとみ)の歳(669)の十月十六日の夜二更(こう 注③)ばかりのときでした」。
 大臣は、その話を聞き終わると、涙を流しながら言った。
「父君の亡くなられたのは、まさしくその年月日でした。老師の夢は、正夢だったのです」。
 定恵は、門弟たちを連れて阿威山にのぼり、遺骸を取り出して、それを談峰に改葬した。そして、その上に十三層の塔を建てたが、その材料は、定恵が唐国に滞在していた時に、すべて調達したものであった。帰国するときに、材料を船に積み込んだが、その船が狭いために、どうしても一層分の材料が載らなかった。

 その塔は、清涼山(五台山 注①)の宝池院の塔を模造したものであったが、出来あがってみると、やはり十二層しかない。定恵は、一層分の材料を唐国に残してきたために、建造物の様式が不完全なものになってしまったことを残念に思っていた。

 ある晩のこと、雷電(かみなり)が鳴りわたり、風雨が山を震動させたが、明け方には、空はすっかり晴れあがった。見ると、残してきた一層分の材料が、そっくりそのまま飛来しており、余分なものも、欠如したものも、何一つなかった。これには、大臣も土民も、感嘆しない者はなかった。大臣は、さらに文殊師利(もんじゅしり)菩薩像を刻ませて、塔中に安置した。

 定恵は、和銅七年(714)に遷化した。




 山西省の五台県の東北にある。清涼山・紫府山ともいう。

 一切の衆生が悉く成仏すべき道を説いた教法。一仏乗とも。

 時刻の呼び名。「更」の第二。日没から日の出までを五等分した二番目の、およそ二時間あまりをいう。


 不比等とのやり取りや霊異譚を除いて、定恵の業績だけをとり出せば、次の2点である。
(1)鎌足の遺骸を阿威山から談峰に改葬した。
(2)鎌足の墓の上に十三層の塔を建立した。

 唐突ですがこの続きは次回にまわして、ここでちょっと戻ります。たった今、定恵についての資料をもう少し欲しいなと思って、ネット検索していて、柏木ゆげひ」という学生さんが制作しているHP 「世の中に昔語りのなかりせば」 に出会った。そのHPの「定恵誕生」というページに定恵についてのいろいろな文献が掲載されている。「多武峰定恵」の定恵の出自譚と同じような話が「大鏡」もあったんですね。孫引きさせていただきます。

 この鎌足の大臣を、この天智天皇いとかしこくときめかし思して、わが女御一人をこの大臣に譲らしめたまひつ。その女御ただにもあらず、孕みたまひにければ、帝の思し召しのたまひけるやう、この女御の孕める子、男ならば臣が子とせむ、女ならば朕が子にせむと思して、かの大臣に仰せられけるやう、「男ならば大臣の子せよ。女ならばわが子にせむ」と契らしめたまへりけるに、この御子、男にて生まれたまへりければ、内大臣の子としたまふ。…(中略)…天智天皇の御子の孕まれたまへりし、右大臣までなりたまひて、藤原不比等の大臣とておはしけり。
(『大鏡』藤原氏物語)

 新庄さんはこの記事を下敷きにして論じていたのだろう。ただし、この記事では母親の名は不明で、そのときの子は不比等としている。私は定恵のことを調べているうちに、鏡皇子と志貴皇子の間の子は不比等ではないかという考えになってきていた。次回はそこまで言ってみる予定です。

 柏木さんが挙げている他の資料も転載しておこう。「多武峰定恵」はこれらを下敷きに書かれたものと思われる。

 定恵。多武峯本願。大和尚。十一歳入唐。俗名真人。母不比等に同じ。
(『尊卑分脈』 ※ちなみに不比等の箇所に「母車持国子君之女 与志古娘」とある)

 和尚(=定恵)、大織冠内大臣一男。母・車持国子の娘、車持夫人なり。件の夫人、元是れ孝徳天皇の寵妃なり。天皇深く大臣の聖智賢意を知り、妃を賜ひて夫人と為す。時に夫人、孕むこと已に六箇月。詔して曰ふ、『生まれる子、若し男ならば臣の子と為せ。若し女なれば朕の子と為す』と。堅く守りて四箇月を送る。生まれし子男なり。故に大臣の子と為す。
(『多武峯略記』第十一住侶、所引『旧記』)

 定恵和尚は中臣連の一男、実、天萬豊日天皇(孝徳)の皇子也。
(『多武峯縁起』)

 ちなみに、これらの資料から柏木さんが提出している仮説を紹介しておこう。

 時代的にいうと、不比等皇胤説を載せる『大鏡』は平安時代後期成立、定恵皇胤説を載せる『多武峯略記』は鎌倉時代成立ですから、定恵皇胤説は不比等皇胤説の影響を受けて(というか、ダイレクトに言えばパクって)成立したものと考えるのが良さそうです。
 ちなみに不比等皇胤説の方も間違いっぽいです(笑) 上に引用した文章の載っている辺りの『大鏡』の文章には間違いが多過ぎますから(例・大友皇子が即位して天武天皇になったとか) 『大鏡』は史実的要素が多いのでいろいろと参考にできるものではありますが、部分的には全く信用がおけないようです(もっとも『日本書紀』だって、何だって同じことは言えますが)

 いろいろ話が飛んでしまいましたが、私は上に書いたようなことから定恵皇胤説を除き、『日本書紀』『藤氏家伝』『尊卑分脈』などから、定恵(と同母弟の不比等)の父は中臣鎌足、母は車持君与志古娘ということにしたい、と思います。

 九州王朝の存在という視点や史料としての『万葉集』を付け加えれば、どういう仮説がもっとも妥当なものとなるだろうか。それが私の目下の課題だった。
スポンサーサイト



 コメント
この記事へのコメント
コメントを投稿する
URL:
Comment:
Pass:
秘密: 管理者にだけ表示を許可する
 
 トラックバック
この記事のトラックバックURL
http://adat.blog3.fc2.com/tb.php/1486-1d83f218
この記事にトラックバックする(FC2ブログユーザー)
この記事へのトラックバック