FC2ブログ
2006年9月4日 ホームページ『「日の丸・君が代の強制」と闘う人たちと勝手に連帯するレジスタンスの会』からの引越し完了しました。
《真説古代史・近畿王朝草創期編》(51)

「天智紀」(39)


鎌足と鏡王女(19):悲劇の王女(4)


 『日本書紀』での定恵に関する記事は二つだけである。初出は653(白雉4)5月12日条で、遣唐使(吉士長丹 きしのながに)に随行した学問僧13人の内の一人として記録されている。

大唐に発遣(つかは)す大使小山上吉士長丹、副使小乙上吉士駒〈駒、更の名は絲〉、学問僧道厳、……、定恵〈定恵は内大臣の長子なり。〉、……并て一百二十一人、倶に一船に乗る。

 次は653(白雉5)年の遣唐使(高向史玄理 たかむくのふびとげんり)記事で、分注に唐に渡った学問僧たちの消息が書かれているが、その中に出てくる。

……〈伊吉博得(いきのはかとこ)が言はく、学問僧惠妙、唐にして死せぬ。知聡、海にして死せぬ。智國海にして死せぬ。智宗、庚寅(かのえとら)の年を以て、新羅の船に付きて帰る。覚勝、唐にして死せぬ。義通、海にして死せぬ。定惠、乙丑(きのとのうし)の年を以て、劉徳高等が船に付きて歸る。……〉

 この記事によると、無事に帰国できた学問僧はまれだということになる。学問僧も命がけの渡航だったようだ。定恵は幸運にも「劉徳高等が船」で帰ってきたという。「乙丑の年」とは天智4年だと頭注にある。すると「劉徳高等が船」とは665(天智4)年条の2度目の唐占領軍の軍船ということになる。この時の記事を再録する。

 唐國、朝散大夫沂(き)州司馬上柱國劉徳高等を遣す。〈等といふは、右戎衛郎將上柱國百濟禰軍・朝散大夫柱國郭務悰を謂ふ。〉凡て254人。7月 28日に、對馬に至る。9月20日に、筑紫に至る。22日に、表函を進る。

 この船に定恵が便乗していたなどという事は書かれていない。ともあれ、『日本書紀』の中の定恵記事はこれだけである。これだけの記事では定恵について何事かを語ることは出来ない。新庄さんは定恵の生涯については『藤氏家伝』によっていると思われる。。

 『籐氏家伝』の「上」は一般に「大織冠伝」つまり「鎌足伝」と呼ばれているが、「鎌足伝」の後に「貞慧(=定恵)伝」が続く。それを転載する。

貞慧伝

 貞慧、性聡明にして学を好めり。大臣異(あやし)びて以為(おも)へらく、「堅き鉄有りと雖も、鍛治するに非ずは、何ぞ干将(かんしょう)の利を得む。勁き箭(や)有りと雖も、羽括(うかつ)するに非ずは、詎(なん)ぞ会稽の美と成らむ」とおもへり。仍(より)て膝下の恩を割きて、遥かに席上の珍を求めしめき。

 故(かれ)、白鳳五年歳次甲寅(かういん)を以(もち)て、聘唐(へいとう)使に随ひて長安に到り、懐徳坊の慧日道場に住ひき。神泰法師を和上(わじょう)と作(な)すに依れり。則ち唐主の永徽(えいくゐ)四年に、時に年十有一歳なり。

 始めて聖の道を鑽(うか)ちて、日夜怠らず、師に従ひて遊学すること、十有余年。既に内経に通し、また外典を解せり。文章は観るべく、藁隷(かうれい)は法(のりと)るべし。

 白鳳十六年歳次乙丑(いちちう)秋九月を以て、百斉より経て京師に来りぬ。其の百斉に在りし日に、詩一韻を誦みき。其の辞に曰はく、「帝郷は千里隔り、辺城は四望秋なり」といふ。此の句警絶にして、当時の才人も未を続ぐこと得ざりき。百斉の士人、窃かに其の能を妬みて毒すれば、其の年の十二月廿三日を以て、大原の第(てい)に終りぬ。春秋(とし)廿三なり。道俗涕を揮(のご)ひ、朝野心を傷めり。

高麗の僧・道賢による長い誄(しのひこと)が続くが、略す。

 ここでは帰国後すぐに、定恵(本文では一応「貞慧」ではなく「定恵」を使っていく。)の才能を妬んだ百済人に毒殺されたとなっている。すごく不自然な記事である。ここから新庄さんは、九州王朝の血を引く不都合な子・定恵はこっそりと抹殺されたという説を掲出したわけだ。

 さらに、ここで注目されるのは白鳳という九州年号である。現在教科書などでは7世記頃の文化を「白鳳文化」と呼んでいるが、『日本書紀』が盗用した九州年号は白雉・朱鳥・大化だけであり、白鳳はない。(ただし、これは盗用ではないが、『続日本紀』の神亀元年(724)10月条に「白鳳以来・朱雀以前、年代玄遠なり」という記事がある。当然と言えば当然なことながら、ヤマト朝廷では白鳳・朱雀という九州年号の存在を知っていた。)「貞慧伝」の筆者は恵美押勝(藤原仲麻呂)と言われているが、藤原家では、こっそりと(あるいは公然とか)九州年号が使われていたことになる。

 さて、その白鳳は661年~683年の23年間である。従って定恵が唐に渡ったのは665年ということになる。『日本書紀』の記録の653(白雉5)年とは12年も差がある。ただし、唐の年号「永徽(えいき)」が書き添えてあるが、永徽は650年~655年の6年間であり、永徽4年は653年であり、こちらは『日本書紀』の記録と一致する。一体どうなってんの?

 金石文などの記録から、白鳳元年の干支は「辛酉(しんゆう)」であることが知られている。あの「辛酉革命」の辛酉。つまり天智称制が始まった年と一致する。関連する年代の「干支 西暦 九州年号 ヤマト王権年」の対応表は次のようになる。


癸丑 653 白雉2 「孝徳紀」の
           白雉4
甲寅 654 白雉3 「孝徳紀」の
           白雉5
乙卯 655 白雉4 斉明元
丙辰 656 
丁巳 657 
戊午 659 
己未 659 
庚申 660 白雉9 斉明6
辛酉 661 白鳳元 斉明7
         (天智称制)
壬戌 662 白鳳2 天智元
癸亥 663 
甲子 664 
乙丑 665 白鳳5 天智4
丙寅 666
丁卯 667
戊辰 668 白鳳8 天智即位
己巳 669
庚午 670
辛未 671 白鳳11 天智10
壬申 672 白鳳12 天武元
癸酉 673
甲戌 674
乙亥 675
丙子 676 白鳳16 天武5


 「貞慧伝」の干支はおかしいのだ。「白鳳五年歳次甲寅」・「白鳳十六年歳次乙丑」となっている。上の表によると甲寅は654年(白雉3 「孝徳紀」白雉5)であり、乙丑は665年(白鳳5 天智4)である。干支の方が正しいとすると、『日本書紀』の記録と比べて、後者は一致している。前者が1年ずれているがのは計算間違いか。わざわざ付け足している中国年号永徽4年(653)の方は『日本書紀』の記録と一致している。

 「大織冠伝」の内容は極力『日本書紀』に合わせるように書かれている。「貞慧伝」も『日本書紀』に合わせるように書いたものと思われる。そうすると、『日本書紀』にある記事は渡唐と帰国の記事だけだから、その2項について合致させることになる。干支の年次で『日本書紀』に合わせ、九州年号の白鳳を用いて本当の年次をひそませたのではないだろうか。

 もしそうだとするならば、定恵は665(白鳳5 天智4)年に「劉徳高等が船」で渡唐したのではなく、人質としてはどうかは分からないが、劉徳高等の帰国を送る使者たちと共に渡唐したことになる。665(天智4)年、唐の第2回占領軍帰国記事の後に、次のような記事がある。

665(天智4)
 是の歳、小錦守君大石等を大唐に遣すと、云々。〈等といふは、小山坂合部連石積・大小乙吉士岐弥・吉士針間を謂ふ。蓋し唐の使人を送るか。〉


 他の遣唐使記事と比べて、実に曖昧な変な記事だが、一応遣唐使の一つとして扱われているようだ。

 676(白鳳16 天武5)年の帰国については「百斉より経て京師に来りぬ」とだけで、何をつてにして帰ってきたのか書かれていないが、掲載を省略した高麗の僧・道賢による「誄」では次のように書かれている。

また、廓武宗・劉徳高らに詔して、旦夕(あしたゆふへ)に撫養(ぶやう)し、倭朝(わてう)に送り奉る。仍(より)て海路(うみち)を逕(へ)て、旧(ふる)き京(みやこ)に至(いた)りぬ。聖上(せいしやう)命(みこと)を錫(たま)ひて、幸(さきはひ)に舎(いへ)に就(つ)くことを蒙(かがふ)りぬ。居(を)ること幾何(いくばく)もあらずして、疾(やまひ)に寝(ふ)し微(わたおほつかな)し。咨嗟(ああ)、奈何(いか)にかせむ。維(こ)れ白鳳十六年(はくほうじふろくねん)歳次乙丑十二月廿三日に、春秋若干(としそこばく)にして、大原の殿の下に卒しぬ。鳴呼哀しきかも。

 唐の天子が郭務悰らに命じて、ねんごろに帰国させたと言っている。一介の学問僧の帰国について、天子が詔するとは異例だ。このようなところから「定恵、人質」説が生まれてくるのだろう。もしも定恵が天智朝からの人質だったとすると、壬申の乱を勝利した天武政権が安定した頃(天武5年)の帰国は納得がいく。天武朝は郭務悰の後ろ盾を得て成った政権だから、もはや人質は不要だろう。天武5年には遣唐使も唐からの使者もないが、新羅との外交で頻繁に使者を交換している。その船に同乗したものと考えられる。「貞慧伝」には「百斉より経て」と書かれているが、その頃は百済はすでに滅亡していてない。新羅経由での帰国と考えてよいだろう。

 なお、「誄」では定恵の死因は毒殺ではなく、「病」となっていることが注意を引く。
スポンサーサイト



 コメント
この記事へのコメント
コメントを投稿する
URL:
Comment:
Pass:
秘密: 管理者にだけ表示を許可する
 
 トラックバック
この記事のトラックバックURL
http://adat.blog3.fc2.com/tb.php/1485-49942bf5
この記事にトラックバックする(FC2ブログユーザー)
この記事へのトラックバック