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2006年9月4日 ホームページ『「日の丸・君が代の強制」と闘う人たちと勝手に連帯するレジスタンスの会』からの引越し完了しました。
《真説古代史・近畿王朝草創期編》(50)

「天智紀」(38)


鎌足と鏡王女(18):悲劇の王女(3)


 前回、天智の「不思議な約束」の典拠を「もし何か知っている方がいましたら、教えていただけませんか」と書いた。念ずれば通ずるとでも言いましょうか、今朝(7月11日)ネット逍遥をして、『元亨釈書(げんこうしゃくしょ)』という、私には未知の書物のあることを知った。どうやらその書物が天智の「不思議な約束」の出所のようだ。そして、いつも利用している図書館を検索したら、ありました。さっそく図書館へ飛んで行きました。

 3冊ヒットしたうちの1冊は「大乗仏典:中国・日本篇25巻」は「序文」だけだったのでパス。次の1冊『国史大系31巻』は原文(漢文)だけで私の手に負えない。幸い3冊目は抄訳だけど現代語訳だった。目的の項目も入っていた。さっそく借りてきた。

虎関師錬著・今浜通訳『元亨釈書』
 (教育社新書・原本現代訳〈63〉)


 私と同様、『元亨釈書』は初めてという方が多いと思うのでその紹介をしておこう。今浜氏の「はじめに」から引用する。

 『元亨釈書』三十巻は、鎌倉時代後期の禅僧(臨済宗)・虎関師錬(こかんしれん)の作品であり、日本で最初の仏教通史である。それは、遠く欽明(きんめい)天皇の時代(六世紀の中頃)から後醍醐(ごだいご)天皇の時代(十四世紀の初め)まで、およそ七百年にわたる日本仏教の通史なのである。

 この作品の成立事情について、興味深いエピソードがある。一つだけ紹介しよう。

 徳治二年(1307)、作者が鎌倉に下り、元の国から来朝した一山(いつさん)国師に師事して修業していたころ、老師から、本朝の高僧の事跡について質問されたことがあった。ところが、作者は満足に答えることができなかった。すると、国師は、
「公の博弁(はくべん)、異域(インド・中国)の事に捗(わた)るは章々(しょうしよう)として悦ぶ可きも、本邦の事に至りて頗(すこぶ)る酬対(しゅうたい)(応答)に苦しむ。何ぞや」
と言ったという。そして、その言葉に発奮した作者が、その後、国史や雑記を博覧して、元亨二年(1322)に完成したのが、この書物だというのである。

 この一つのエピソードが、『元亨釈書』の成立・内容についてほとんど説明しているように思う。

 作者の虎関師錬は、いわゆる五山文学の先駆的な存在であり、一山国師の言葉にも「異域の事に捗る」とあったように、仏教だけではなく、儒教・道家にも精通していた。その彼が持っている博識を縦横に使い、文字通り心血を注いで書きあげたのが、この作品なのである。

 いうまでもなく、作者は、歴史や文学にも造詣が深かった。例えば、『元亨釈書』の構成は、中国の歴史書『春秋』や『史記』などにきちんと則(のっと)っている。また、彼は『済北集』以下の詩文集も遺している。

 こうした作者の歴史や文学に対する造詣の深さが、『元亨釈書』にも色濃く反映して、この書物をより面白い、読んでいて楽しいものにしたように思う。特に各僧侶の伝記には数多くの説話が引用され、読者は思わず顔をほころばせずにはいられないだろう。そこには、これまで読者が名前しか知らなかった名僧、あるいは名前さえも知らなかった高徳が登場し、それぞれに活躍し、それぞれにエピソードをふりまく。

 これまで、仏教説話の宝庫とまでいわれた、これほど面白い作品が、一般にはあまり知られず、また、この作品自体の文学的研究もほとんど進んでいない。その大きな理由の一つに、この作品が漢文体で書かれていることが挙げられよう。その外見からくる〝難解さ″を取り除くこと、それが人々をして、『元亨釈書』に近付けさせる方法ではないか、と訳者は常々考えていた。

 どんな財宝でも、それがいかに尊貴なものであっても、それを宝として認めるのは人である。訳者は、『元亨釈書』を「宝」として認め、この書物の価値を認めてくれる人が、もっと多くでてきてほしいと思っている。あの世の原作者も生前はこの作品が天下に流伝されることを、あれほど望んでいたではないか。

 「『現代訳元亨釈書』は僧侶の伝記部分を抄訳している。その巻八に「多武峰(とうのみね)定恵」という項がある。それは次のように始まる。

 釈定恵(じょうえ)は、大織冠(たいしょくかん)(藤原鎌足の尊称)の長男である。

 はじめ、孝徳天皇に一人の妃がいたが、みごもってから六か月たったころ、大織冠が彼女をとても寵遇(ちょうぐう)していたので、天皇は、その妃を賜り、彼の夫人にした。そして、彼に約束して言った。「生まれてくる子が、もしも男であったならば、君の子としよう。女であったならば、わしの子としよう」。その後、定恵が生まれたので、出自は藤原鎌足の子ということになった。

 これは明らかに 「天智の履歴の謎」 で取り上げた「皇極紀」の644(皇極3)年正月1日条の記事が下敷きになっている。しかし孝徳はまだ王位を継いではいない。軽皇子として登場している。該当部分だけ再録する。

 このころ軽皇子も脚の病で参朝できなかった。中臣鎌子はかねてから軽皇子と親しかった。それでその宮に参上して侍宿をしようとした。軽皇子は鎌子の心映えが高潔で、容姿に犯しがたい気品のあることを知って、もと寵妃の阿倍氏の女に命じて、別殿をはらい清めさせ、新しい寝具を用意させて、万事こまごまとお世話なさった。

 軽皇子が鎌子におべっかを使って寵妃を差し出した説話に色を付けて、そのとき寵妃は妊っていたという話に仕立て上げている。この話が真実とすれば、定恵は孝徳の子ということになる。新庄さんは、定恵は鏡王女の子であるという結論が先にあるので、この説話の孝徳を天智に置き換えて解釈したものと思われる。(あるいは天智と鎌足を主人公とした同じような説話があるのだろうか。)

 ところで、虎関和尚は「多武峰定恵」の説話をどこから探し出してきたのだろうか。ここでも出典が明らかにされていないが、まさか和尚の創作ということはないだろう。「多武峰定恵」の続きを読むと(次回か次々回に掲載します。)、多武峰の談山(たんざん)神社の神社縁起ではないかと思われる。

 では、神社縁起や寺伝はどの程度史料として使えるだろうか。『日本書紀』と同様、そのまま信じることは出来ない。箔付けのために権力者と結びつけたり、誇張したりすることがままあるだろう。このことに関連してつい先日(7月10日)、東京新聞夕刊で面白い話に出会った。「歩いて楽しむ京都の歴史」という連載コラム(筆者は同志社女子大教授の山田邦和氏)に京都の古社・藤森神社の縁起が紹介されていた。次のようである。

 京都南郊の古社である藤森(ふじのもり)神社(伏見区深草鳥居崎町)は、神功(じんぐう)皇后、「日本書紀」の編者である舎人(とねり)親王、光仁天皇皇子の早良(さわら)親王などの多数の神を祀(まつ)って いる。近世の地誌に記されたこの神社の縁起によると、

早良親王は英邁(えいまい)さを見込まれ、兄の山部(やまべ)親王を退けて皇太子となった。その時、蒙古が攻めてきたので、光仁天皇は親王を大将軍に任じて征伐にあたらせた。親王は出陣にあたって当社に戦勝祈願をおこなったので、神風が吹いて蒙古軍を退けることができた。ただ、親王はその後早世してしまったため、兄が替わって即位して桓武天皇となった。

 しかし、早良親王は光仁天皇ではなく桓武天皇の皇太子であり、桓武天皇より先に立太子したはずはない。蒙古襲来(元寇)は鎌倉時代の事件であるのに、ここではいつの間にか奈良時代にすり替わり、早良親王がヒーローとなっている。

 史実としては、親王は桓武天皇の寵臣藤原種継暗殺事件に連座して死に追いやられるという非業の最期を遂げている。つまりこの伝承はまったく歴史的事実とは異なっているのである。

 藤森神社の境内には蒙古兵の首を埋めたという蒙古塚まで残されており、こうした伝承が広く信じられていたことは確かである。早良親王を主人公として華々しく活躍させる藤森神社の縁起は、悲運の皇子に対して人々が捧げた鎮魂歌(レクイエム)だったのかもしれない。

 この例ぐらいにはっきりとデタラメぶりが発揮されていれば、これを史料としてまじめに取り扱う人はまずいないだろう。しかし作為が巧みである場合は、その中から真実だけを腑分けするのは容易ではない。矛盾した言い方になるが、慎重でかつ大胆に取り扱うことが肝要だ。

 では「多武峰定恵」は史料として使えるだろうか。結論を急ぐまい。『日本書紀』・『藤氏家伝』・『元亨釈書』を全体見通した上で判断しよう。
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