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《真説古代史・近畿王朝草創期編》(49)

「天智紀」(37)


鎌足と鏡王女(17):悲劇の王女(2)


 前回引用した古田さんの講演録は次のように続く。

 私が考えましたように(妙心寺の鐘が)天皇家から奉納されたのであれば、絶対に観光案内であれ、教科書であれ、書くわけですよ。ところが何も書いてない。ということは天皇から奉納されたのなら、他のことはさておいて、これだけは、寺としては忘れてもらっては困る、と特筆してP・Rするはずなのです。それが一切無いということは、天皇家からの奉納はもちろん、あんまり表だってPRする程の"手に入れ方"ではないのだということを逆に意味していたんですね。この当然の道理を私の独断的な頭の為に見逃していたわけです。

 以上のことを敷衍して、古田さんは釈迦三尊像について言及している。

 ということを考えてみますと、これは妙心寺だけの問題ではないのではないでしょうか。

 例えば法隆寺の仏像が橘寺から来たということなら、別に隠すことはないですね。何も恥しい事とちがいますね。「~天皇からの下賜か奉納」でも、絶対書くわけです。法隆寺再建後に何処かから来た仏像としか思えないのに、全然書いてないでしょう。観光案内にも美術史にも、一切書いてないでしょう。高校の教科書等には「釈迦三尊像」が出てきます。でも「~天皇奉納」とか「橘寺から来た」とか一切書いてありません。

 ということは、「釈迦三尊像」の入ってきかたが誇らしいものなら、「こういう所から、こういう特殊な方が、こういう意志をもって法隆寺に献納された。」と第一番のP・R事項にするはずなのです。それが一切無いということは、あまり自慢できる入り方ではなかった。門前を大八車で通ったのを買ったか、九州に行って買ってきたのか知りませんけれど、あまりP・Rすべきものではなかった、だから伝わっていない。或いはP・Rしない筋合いのものだったのです。

 これと直接ではないですが、関連するような意味あいの記事がございます。『日本書紀』の持統天皇六年のところです。持統天皇が筑紫の太宰府に対して詔勅をだしているのです。

"お前のところに阿弥陀像がある、中国の人(唐の使者郭務悰)が来た時に造ったものだが、天智天皇の冥福を祈る為に造ったものであるから、こちらに差し出すように。"

という詔勅が出されたと書いてあるのです。

 筑紫太宰府に天皇家が欲しがるような立派な仏像があったのですね。何処のお寺かは知りませんがね。ところがその仏像が天智天皇の冥福を祈ることを本旨とするもので本当にあるならば、言われなくても大和もしくは近江に送るわけですよ。送らずに自分で持っているのを、寄こせ、と言ってるわけです。そして"寄こせ。"という理由が、「天智天皇云々」です。

 仏像を造っている時に、天智天皇が亡くなって天智天皇の冥福を祈ってこの仏像を造りましたと言う、ということも有りうることです。ところがそれを理由に"寄こせ"となっているわけです。本来は筑紫の太宰府に置く為に造った仏像であるようです。唐の使者が作り、天皇家が欲しがる仏像なのです。天皇家はそれが欲しいのです。天智天皇の冥福を祈ったのだから寄こせと、無理難題と言うとおかしいですが、"こじつけ"を言っているわけです。ひどい言い方ですが、実態はそう違わないのではないかと思います。そう思わないと、私には理解できないのです。筑紫近辺にあった貴重な仏像が、近畿に持ち去られた証拠が歴然とここにもあるわけです。これは状況証拠です。

 新庄さんによると釈迦三尊像を欲しがったは鏡王女であった。釈迦三尊像によせる鏡王女の強い思いに、新庄さんは鎌足の長子と言われている定恵(じょうえ 『藤氏家伝』では「貞慧」と表記している)の悲劇を重ねて、心を寄せようとしている。

 鏡、額田二人の王女は妃はおろか、夫人の数にさえ記録されていない存在であったといいます。倭国宮廷において鳴り響いていた才女を、戦利品として得たのではないか。これは戦勝国の得た玩具であると私は見ています。その時鎌足が両国の間で何か力を至したのではなかろうか。後の天智と鎌足の後宮でのやりとりを見る時、そのような気がするのです。

(中略)

 とまれ、大和へ送られて来た二人を天智は早速鏡王女を、天武は額田王女を采女として後宮に入れたのです。鏡の方が有名だったのでしょうか。鎌足は倭国宮廷の頃からその才色を知っていたのです。王女は官人達の垂涎の的でした。

 天智は待望の美女鏡王女を得ましたが、間もなく不要の玩具でも捨てるように鎌足に与えるのです。孕女だよとことわりながら。生まれてくる児が男児であればお前に遣ろう、女児なれば自分が育てると、不思議な約束をするのです。天智にとって男児は数少ない一人ではありませんか。しかし何はあれ鎌足は喜びました。大喜びです「……得かてにすとふ安見児得たり」と。天智は知っていたのです。生まれて来る児の父親を。

 志貴皇子から引き離されて大和に拉致された鏡王女が志貴皇子の子をみごもっていたと言っている。その子が定恵だという設定である。

 定恵が鏡王女の子であることや天智の「不思議な約束」のエピソードを、新庄さんはどこから得たのだろうか。なにか確かな典拠があるのだろうか。あるいは新庄さんの想像にすぎないのだろうか。このエピソードは小説の設定としては面白いが、その確かな典拠が示されなければ、歴史の真相を知ることを目的としている立ち位置からはにわかに信じるわけにはいかない。(もし何か知っている方がいましたら、教えていただけませんか。)

 ともあれ、新庄さんの叙述を追っていこう。

 そして、鏡王女は京都山科の鎌足の私宅に入りました。鏡王女を正妻と言う学者がありますが、私宅は本宅ではなく女性は正妻ではないはずです。ここは妾宅です。第一、山科から大津までは汽車で今でこそ一駅ですがそれはトンネルを使ってのことで、大昔牛車での毎日の山越え、逢阪山の登り下りの宮廷への出仕等とても無理というものです。鎌足の本宅は大津宮殿の近くにあったはずです。

 鏡王女はここで月満ちて男児を生みました、定恵です。幼名は真人といった由。真人は倭国王朝の臣位の名です。

 定恵……。やつと九歳(満七歳)になったとき、幼い児を鎌足は僧籍に入れて仏門に預けてしまうのです。この児の生きる道を考えてのことでしょうか、それとも目障りであったのでしょうか、理解に苦しみます。

 それから二年後、十一歳(満九歳)の時、唐の劉仁願や格務悰が大和を訪れた時、その帰りの船に乗せて人質として唐の国へ送り出すのです。

 仏教勉学のために唐へ行ったという学者があります。まだ母の膝恋しい九歳の児が言葉も適わぬ遠い国へ仏教の勉強に行きたいなどとふざけたことをいいましょうか。大昔も今も九つは九つ、人間の成長にさほどの変わりはないはずです。

 それから十二年、やつと許されて帰国したのです。二十一歳の立派な青年になっていました。帰国の船が百済の港に寄った時、望郷の思い止み難く、詩文を作りました。

  帝郷千里隔 四域四望秋

 骨も凍る詩文と人はいいます。送って来た唐の官人もこの寂蓼の重さに詩文の後が継げなかつたということです。そしてやっと彼は故国の土を踏みました。この時鎌足はこの世にいなかつたという説もありますが、もし生きていれば何故、もう少し安全を考えてやれなかったのかと腑におちません。

 ともあれ定恵はやっと苦労の末に帰ってきたのです。彼は母親譲りの秀麗な面ざしと気品、生まれながらの優れた素質に仏教的修練の輝きを添えて、誰の目からもただの僧侶として一生を送る人物とは見えなかったといいます。彼の不幸せは生まれながらに、与り知らぬところに根ざしていたのです。そして彼は帰国後僅か二カ月の朝夕を故国の地で生きたきり、何者かの手により暗殺されたのでした。

 「倭国王朝の種」が大和において人も仰ぐばかりになったとき、一番脅威を感じておののく者達が、彼を早ばやと抹殺したことと私は見ています。この時の母、鏡王女のことを語る書物を知りません。しかしこの世において彼の無事を日夜祈り、帰国する日を鶴首していたのはこの母一人ではなかったでしょうか。誰がこの子の存在を疎むとも、彼女にとっては総てを諦めた一生のたった一つの宝物ではなかったか。十二年は長く、やっと帰って来て、もっともっと側で語らいたかったのはこの母のみではなかったかと私は思うのです。この世でたった一度、心より愛した人の忘れ形見であったのに。僅か二ヵ月で死別。

 九州に在った代行天皇「あなたと共に大和へ行きたい」と別れを惜しんでくれた志貴皇子は、吾が子定恵の死を知ることはあったのでしょうか。定恵の死を痛く偲ぶ時、あの仏像釈迦三尊に縋るより他なかった彼女の上を思えば、働哭の涙のおもわずも溢れるのを覚えるのです。

 山科寺と言われた鎌足の私宅において、あの大きな仏像だけが九州王朝の滅亡と鏡王女の総てを知る仏であり、この仏だけが温かい眼差しで彼女を包んでいたことを信じるものです。これまでの説のように定恵がもし孝徳や舒明の子息であったら、これ程幼い日から苛酷な目に会わなくとも生きられたのではないか、これらの子息なら大和には生きる場所があったはずです。

 鎌足は折角の寛げるはずの妾宅に才女を得て喜んだのも束の間、いわくいい難き大きな仏像をデンと据えられたその気詰りさは、なるほど再三の彼女の要求にも応じなかったはずであり、その経緯は不明ながら結果として大和王朝へ鞍替えしたことを思うとき、この仏像が妾宅にあることの、如何に彼にとって楔のごとき重圧的存在であったことか。にも拘らずこれを彼女のために許さざるを得なかったことは、鎌足の定恵に接した扱いの、そのうしろめたさに対するせめてもの贖罪ではなかったか。人間としてギリギリの譲歩であったと私には思えるのです。

 彼女の死後、不比等が大和の興福寺へこの仏像を引き取ったといいます。「日出る処の天子、日没する処の天子に書を至す、恙なきや」と、堂々たる国書を隋の天子に送ったという天子多利思北弧。九州王朝中興の祖とも称えられるこの方の像といわれるこの仏像は釈迦三尊とも言われて、今、法隆寺の本尊として祀られている仏様です。

 定恵が鏡王女の子であったことが真実ならば、何とも感動的で、さもありなんと思われる魅力的な仮説である。しかし残念ながら、残された文献(『日本書紀』・『藤氏家伝』)だけで検討するかぎり、「定恵=鏡王女の子」説には無理がある。もちろんこれは『日本書紀』または『藤氏家伝』の記述が真実を語っていると言うことが前提であり、それらが信用できないものであれば、新庄説の可能性も全く否定するわけにはいかない。次回は『日本書紀』・『藤氏家伝』の記録を検討してみよう。
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